南へ/エルスール


id:mikk さんのところで、渋谷ビクトル・エリセの旧作が上映されていることを知り、仕事は山積しているのだけれど居ても立ってもいられなくなり、21 時からの『エルスール』上映最終回に出かける。研究棟のエントランスのドアが開くと生暖かく甘い空気が流れ込んできて、一瞬季節を思い違う。渋谷へと向かう道の途中、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。
『エルスール』は、というよりエリセの作品は、記憶に関する映画だと僕は受け取っている。そして、その映像もまた、記憶というものの在り方をよく表している。窓からこぼれて来る淡く青い陽だとか、煙草の白い煙が拡がってゆくさまだとか、赤ワインの反射する鈍い光だとか、ストーリーよりもそういったディテールが見るものの記憶に強く刻まれるのだ。スペイン北部の柔らかく陰った風景が時の流れを全て包み込んでしまい、主人公エストレリャの記憶と僕の記憶とが交じり合う。エストレリャも、彼女の父も、記憶に囚われ躓くひとたちなのだけれど、同時に記憶こそが愛の対象となりうる、ということを体現している。ヘルダーリンの「わたしたちは影でないものなど愛せるだろうか?」という言葉がアデライダ・ガルシア=モラレスによる原作に引かれているのは象徴的だ。「記憶の中の父」の記憶の地である南スペインへ向かうエストレリャはそこで何を見るのか。不安と期待に満ちた彼女の表情に僕も背中を押される。
春の嵐に煽られながらハイネケンを流し込んで研究室に戻る。2 月に汗ばむなんて贅沢だ。これですぐに春が訪れるわけではないだろうけれど『エルスール』よろしく南へ旅立った気分に。

ゆるふわモテ形而上学読書会 1回目

Contemporary Debates in Metaphysics (Contemporary Debates in Philosophy)

Contemporary Debates in Metaphysics (Contemporary Debates in Philosophy)

人生初めてのオフ会は、モテとはそもそも実在するのか、実在するとすればどのようなものか、といった形而上学的な話題が中心となりました。二時間でだいぶモテるようになった気がします。ブログ界のそうそうたるかたがたとおあいできて光栄でした。
「ゆるふわモテ形而上学(ゆるふわMetaphysicians)読書会」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

ぼくらの住むこの世界では / The Places We Live

我々の共通場は、たとえそれが今日は何の効力がなくとも、世界を唖然とさせる諸々の抑圧の事実に対してまったく無力だとしても、世界の人々の想像界を変化させることに力があると思われる。我々が我々の身にふりかかった悲惨な状況に根本的に打ち勝つのは想像界によってである。想像界はすでに我々の感受性の流れを変え、我々の悲惨を克服する一助となっている。(エドゥアール・グリッサン『全‐世界論』)

泳いだあとの心地よい疲労とまだ皮膚に残る流水の感覚に包まれて、暖房の効いた研究室で論文をひとつ読み終え、窓の外に広がる世田谷の夜景をぼうっと眺める。Nina Nastasia を聴きながら kebabtaro さんの日記に張られたリンクを何気なくクリックした瞬間、窓が広がり、雑踏の中に立っていた。二つの耳の間でスラムの喧騒とニューヨーク生まれの暖かな音楽とが混ざりあう。地平線のかなたまで続く屋根の無限の繰り返しにめまいがする。どこなんだろう、ここは。
http://theplaceswelive.com/
書き留めておきたいこととか、あのひとに伝えたいこととか、沢山あるんだけれど、ありすぎて、うまく言葉にできないときには、詩人に頼るしかない。つまり「ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり 喜びと悲しみが時に訪ねる」ってこと。places と世界を等置してしまうのは単複を区別しない日本語の利点というか、暴力というか、わからないけれど、kebabtaro さんのいう「"We" のあいだの深い隔たりをそれでも等号で結ぼうとする」営みともどこかで繋がるようにも思う。
僕がぬくぬくと暖をとりながらパソコンの画面でスラムの写真を眺めていることには勿論無反省ではいられない。でもスラムの喧騒と Nina Nastasia のくぐもった声、チェロの響きとが混ざりあったあの瞬間はとても美しかった、ってことだけは本当なんだ。ムンバイとニューヨークと東京がふとした偶然で混ざりあった瞬間。抵抗と独善とはどうやら紙一重らしいので、ほんとうに困るんだけれど。
 

The Places We Live

The Places We Live

調べたところ、写真家は今年からマグナム・フォトの正会員となった Jonas Bendiksen という人*1。さっそく Amazon で注文。

*1:彼のページより:「僕は毎日の見出しを巡る競争に置き去りにされたストーリー (まあジャーナリズムの孤児とでも言おうか) を扱うのが好きだ。レーダーのすぐ下を飛んでいる、隠されたあやふやなストーリーの中にこそ、最も価値と説得力を備えたイメージが隠れているんだ。」

サタデーナイトにうってつけの日

 さられないっおまえをのーせーてる!
 The Impressions の "People Get Ready" まんまであろうと John Mayer"Waiting on the World to Change" は名曲であり、であるならば、と、私も脳髄に刻まれた斯のコードに乗せて湧き出づる言葉を紡ぎ、大学から渋谷までの夜道を辿るのであるが、出来上がるのはせいぜいおセンチな J-RAP に過ぎず、渋谷 陽一 そう 思春期も 早漏に これにぞっこんに いったい名曲と駄曲を差別するのは何なのでしょうね One Love、などとつらつら煩悶しているが為に there's a train a-comin' 山手線の終電にも間に合わず、金曜深夜のセンター街で虹色の毛髪を生やした渋谷系男子に囲まれひとり侘しくラーメンをすすり、円山花街、松涛お屋敷街と頼まれもしない夜回りに勤しむつもりが、逆に警吏に職務を問われ、這う這うの体でキャンパスへ戻ってきた次第である。
 駄辞を並べたのは照れ隠しであって、本日深夜に執り行われる我がバンドのライブの告知をするのがこのエントリの目的である。お恥ずかしいので伏せたままにしておこうと思っていたのだが、ノルマがあるのでひとを集めよ、との指令をメンバーから受け、事実だけでも残しておこうと斯様に差し迫った時刻の告知と相成った。

【Brick vol.1】
◆2008.11.15 (Sut) 23:30〜29:00
at 高円寺 club MISSION'S (駅から徒歩約 3 分)
http://www.live-missions.com/
◆Charge
2,000 yen with 1D
◆DJs
yuki (rhythmic step!, Cheerful)
・mama (VELLAmama, rhythmic step!)
・kms (s*p, merrymerry)
・OKU (田中祭)
・ポコミン (BlankPage)
・まーしー (JUKEBOX, BEGINNERS HIGH)
・Ajyu a.k.a nero (black neon party)
◆timetable
23:30〜24:05 mama
24:05〜24:40 ポコミン
24:40〜25:20  ■LIVE■ mmmm (merry merry minus mountain)
25:20〜26:00  ■LIVE■ Cheerful
26:00〜26:35  OKU
26:35〜27:10  Ajyu a.k.a nero
27:10〜27:45  kms
27:45〜28:20  まーしー
28:20〜28:55  yuki

UK rock 寄りのイベントだそうです。mmmm というバンド名で 24:40-25:20 の出演。Blankey (Vo, Gt) と Jet (B) と City (Dr) から成る 3 ピースバンドです。オールナイト・イベントですが、僕らの出番前に帰ればまだ中央・総武線は上下線とも運行しているので、是非お気軽にお越し下さいね。よろしく!

「シンポジウム『生成文法の可能性』レポ」への言語脳科学からの応答

2008 年 11 月 9 日に専修大学で行なわれたシンポジウム「生成文法の可能性」に参加し、いつもブログ上でお世話になっている id:dlit さんともお会いすることが出来ました。お会いした感想としては同じく、若け〜というのと、やっぱり言語学の方はきれるな〜という。シンポジウム後はお互い多忙で、ゆっくりお話も出来ませんでしたが、またお会いする機会はあると思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
レポートは dlit さんがこちら (シンポジウム「生成文法の可能性」レポ - 誰がログ) で丁寧にやってくださっているので、僕は、そこで挙げられている質問にお答えしたいと思います。ちなみにここでの回答はあくまで僕個人の見解でありまして、所属する研究室や共同研究者の意見とは関係があるかもしれませんし、ないかもしれません(笑)。
 
さて、dlit さんのご質問として

ある刺激に対して言語能力に関する脳の特定の部位、文法中枢が活性化されたとして、それはUG*1の何に対しての活性化なのか、あるいはそれを調べることのできる実験はそもそも作れるのか。Merge*2というのは非常に一般的な操作でsyntaxが絡んできたらほぼ関係してくるものですから、syntax-relatedな刺激に対しての反応が(他の何かの原理ではなく)UGの核であると考えられているMergeによるものであるという絞込み自体が行えないかもしれない、なんてことになったりしないかなあ、と。この辺りshokou5さんに聞いてみたいところです。

という点があげられていて、同じポイントに関して Jedi さん (id:jedimasteryusukeyoda) も触れられていらっしゃいます。

「ある刺激に対して言語能力に関する脳の特定の部位、文法中枢が活性化されたとして、それはUGの何に対しての活性化なのか、あるいはそれを調べることのできる実験はそもそも作れるのか。」
これって凄く難しくて、現時点では(僕個人の感触ですが)無理だなぁと思うところです。たとえば、素性とかの話なんかも、そうだと思うのですが、在る操作(WH移動とか?)が脳のある信号に還元されるなんて事はどう考えても観察出来なさそうだし。

この点に関しては、僕は原理的な不可能性はないと思っています。ただ、その実現ためには理論の方のサポートがもう少し、いや、かなり、必要かな、と思っています。具体的には、異なる operation に対して、その計算量を独立に想定することが可能であれば、それぞれに対し脳活動との相関をとることが可能です。実際、意思決定の分野では、異なる計算パラメータに対し異なる部位の脳活動が対応することが明らかになってきています (Doya (2008) など参照)。確かに Merge はあまりに一般的な操作ですが、checking や movement といった別の operation と直に分離できないまでも、独立の変数を使って計算量を算出することが出来るならば、脳内における計算として分離可能だと思います。また、もうひとつの方策としては、脳の活動の時間的な発展を見るという方策です。これは fMRI では少し難しいとは思いますが、MEG/EEG/ECoG あるいは将来のより優れた技術によって実現可能になるのでは、と思います。ただ、ここにおいても、具体的な計算操作の時間的順序がある程度明確に理論化されている必要があります。
Jedi さんが仰っているポイントが、あくまで神経科学の技術的な問題であるならば良いのですが、原理的な不可能性について仰っているのだとするとちょっと困惑してしまいます。なぜなら、僕たち実験屋は、理論において、例えば、WH 移動としてまとめて名指された operation はある何らかの自然な分類をなしていると見做しているからです。まあ、全ての自然な operation の分類が全て脳活動の分類として還元される必然性はないのですが、そうでないとすると、何を反映した分類なのか、を明らかにしていただきたいと思うわけです。
というわけで、実験側から理論側へのあつかましい要望としては、なるべく具体的な計算論モデルを出していただきたい、というものです。僕は理論のほうは不勉強ですので、有望なモデルを既にお持ちの方は是非教えていただけると幸いです。
  
また id:killhiguchi さんのコメントですが、

私の極々個人的な感想では、認知言語学の人は生成文法を目の敵にして文献を読んでいるけれど、生成文法の人は認知言語学の対立仮説に目を向けていないのではないかという印象があります。S井先生と話した時などの飽くまで印象です。
例えば、usage-basedに批判的な生成文法の論者は、Langackerのa dynamic usage-based modelを読んでいらっしゃるのでしょうか。Tomaselloのconstructing a languageを読んでいらっしゃるのでしょうか。

とりあえず僕は読んではいます。実際、「対立仮説では現象を説明できないのでこの説明を採用する」といった形で、自己の正当化のためであるにせよ、ある程度目を向ける必要は出てくるのです。ただ、母語の獲得のほうまで行くと僕の研究の専門ではないので、なかなかフォローしきれてはいないです。少なくとも上で挙げたようなイメージングの方策であれば、生成文法であろうと認知言語学であろうと、モデル間比較が可能ですので、是非どちらの分野の方にも、検証可能な計算モデルを提示していただきたいなあ、と思っております*3
また何かご質問などがあればできる範囲で回答させていただきます*4
 
どうでもよい追記:専修大学では日本現象学会も開催されていて、そちらに参加していた大学 2 年のころのバンドのメンバーにも会ったのだった。奇遇!ドラがムめちゃくちゃうまいのだが、ライブ前に酒を飲み過ぎてよれよれになっていたやつだ。そんな彼が今じゃハイデガー研究者だなんてね。

*1:筆者注: 普遍文法 Universal Grammar の略。言語機能の初期状態。

*2:筆者注: 併合。二つの言語要素を組み合わせて新たな要素を形成する操作。

*3:というか僕ひとりの力では到底出来ないので、是非、共同研究が出来たらよいなあ、と思っています。とこっそりアピール。

*4:カッとさせてしまった方、申し訳ありませんでした。どこら辺が問題だったのか、コメントいただけると幸いです。有意義な議論ができれば、と思っております。

MAKI OGASAWARA PHOTO EXHIBITION 『旅の空』 E&Y HOUSE


毎日のように僕が買い物をするセブンイレブンの前にある、何だかイカした建物。何年も気になったまま立ち入ることはなかったのだけれど、先日、入り口に "DESIGNTIDE TOKYO 2008" の立て札が出ていたので、買ったばかりのカップラーメン片手にふらっと立ち寄ったところ、写真展が行なわれていた。E&Y という家具屋さんのショールームらしく、こざっぱりとして遊び心のある空間の中にモノクロ写真が散在している。
 
飾られているのは小笠原真紀さんギリシャの小島の旅の写真。
夏の光に掠れる子供たち、犬、商店、木々。飛散した白い粒子が、地中海の光の眩しさを涼やかに表現すると同時に、その風景の忘却をも、また、焼き付けている。写真集『空の旅』にも写真と写真の間に、忘れ去られた旅の歩みのように、幾つもの空白のページが織り込まれている。僕が旅先で必死にカメラを振り回し旅の風景の忘却に抗おうとする裏で、こんなに清清しい写真も存在しうるのだ、と心を打たれた。記録・所有の欲望から可能な限り自由な写真があるとしたら、このようなものではないだろうか。
旅は意識的・目的的になされる x-y-z 軸上の移動である。けれども、旅に出ようが出まいが、意識しようがしまいが、常に僕たちは t 軸に沿っても移動している。旅とは「ここではないどこか」のものであると同時に「いまではないいつか」のものでもある。であるならば、時間の移ろい、掠れゆく記憶、を同時に表現した旅の写真があってもよいはずだ。
人は、つい、旅とは何かを掴みにゆくものだと思い込み、何かを持ち帰ろうと必死になってしまう。けれども、そのような義務・焦燥というのは、結局、毎日の生活の中で担わされているものの延長に過ぎない。もし旅が非日常的なものであるとするならば、それは、何も獲得する必要がなく、忘れていくことが許されている時間、としてあるのではないだろうか。
もちろん、「目的のない旅に出る」という行為自体が既に目的的であり、「痕跡を残さない旅」もまた実行不可能である。けれども、そのダブル・バインドから目を背けずにそのまま印画紙へ焼き付けることで、小笠原さんの写真は「旅」をその原初的な形で示している。
 
手にカップラーメンを握りぬぼ〜っとしていたら、いつの間にか隣に、僕でも顔を知っている某デザイナー氏が立っており、急に気恥ずかしくなってこそこそと逃げ出したのだが、お昼休みのちょっとした時間に、旅へ出てまた家へと戻ってきたような、すっかり洗い流された心持ちになった。もうしばらく開催しているようなので、また気軽に立ち寄ろうと思う。それにしても、写真展から受けた印象を忘れまいとして、必死でブログに記す僕は、どうやら、やはり、旅というものを全く理解していないようである。
 

MAKI OGASAWARA PHOTO EXHIBITION
『旅の空』
 
2008.10.20 - 2008.11.24 11:00 - 20:00
Private View: 2008.10.19 17:00 - 21:00
 
Place: E&Y HOUSE
東京都目黒区駒場1-32-17 UNS Bldg ( 地図 )
tel: 03-3481-5518

 
小笠原さんは、どの雑誌かはわからないけれども、マガジンハウスでお仕事をされているらしい。



旅に出たくて出られない僕には、最近の『BRUTUS』は刺激的すぎ。「山」に「地方都市」とソソル特集ばかり。涎でべちょべちょにして眺めている。実家に戻って登山道具と一緒に親父の『アルプ』のバックナンバーも掠めてこようか知らん。

Sigur Ros 新木場 STUDIO COAST 20081025

秋の大物ライブ三連戦、radiohead につづく二戦目は Sigur Ros
今回も我がバンドのボーカル kms の誘いで参戦。チケットがライブ当日になっても kms の手元に届かず、問い合わせたところ、住所の宛名に間違いがあって、羽田の荷物集積所に留まっていたことが判明。羽田に急ぐ彼。一方、僕は先に新木場駅に着いて彼を待っていたのだけれど、この駅前の風景が、良かった。労働後のおっちゃんたちや暇をもてあました感じの若者たちが、それぞれ思い思いにたむろして、酒を飲んだり、煙草を吸ったりしていて、ちょっとすさんだ感じが、何だか、懐かしくて、心が安らいだ。開演予定時間は過ぎているし、はやく kms に来てもらいたいものの、まあ、俺が焦ってもしょうがないか、と僕もビールと煙草で彼らに同化する。急きはしてもひとり。などとひとりごちる。結局、kms が羽田からタクシーを飛ばしてくれたおかげで何とか 20 分遅れほどで入場できた。
 

"Glósóli"
 
扉を開けてすぐに僕は彼らの世界にどっぷり引きずり込まれた。一音、一音が、ステージのバックの映像と渾然となって呼吸をして、跳ね回って、じゃれあって、身体の穴という穴をこじ開けて心臓に飛び込んでくる。3年前の FUJI ROCK での山影と星屑を借景した、眩暈を催すようなステージを目の当たりにして以来、彼らの虜になった僕なのだけれど、自慢じゃないが、彼らの曲名はほとんどまともに知らない。ホープランド語読めない、ということもあるのだけれど、彼らの楽曲自体が言語化を拒むようなところがあって、敢えて、読んで、訳して、意味を知りたい、とは思わないのだ。あの豊穣な音のざわめき、叢がり、を何かひとつの言葉で名指すのはほとんど冒涜のような気さえする。言語の限界は世界の限界である、と唱えたひともいたけれど、むしろ、原世界にあるものがあまりに肥沃で蠱惑的だからこそ、僕たちは自分たちを抑制するために言葉で世界を狭めているのではないかとすら思えてくる。高鳴るバスドラムに振るえながら、普段の生活では触れることも目にすることも出来ない、世界を構成する粒子がきらきらと踊っているのを肉眼で知覚して、訳もわからず涙が出てくるので、頭がおかしくなったのかと思った。いや、おかしくなってたんだろうな。
 

"Inní mér syngur vitleysingur"
 
新アルバム『Med Sud I Eyrum Vid Spilum Endalaust』 (個人的に「はだかんぼ」と呼んでいる) はこれまでになく楽器の粒が立ったアルバムで、ライブで聴くと本当にドラムのオッリが名プレーヤーであることがわかる。ヨンシーは声の調子が悪かったみたいだけれど、何だか、かえって、世界線のぎりぎりの淵で歌っているような、壊れる寸前のファルセットが、美しく感じた。苗場ではあまり良く見えなかったメンバーのファッションもひとりひとり個性的で、心が踊る。ベースのゲオルグ髭男爵みたい。オッリはインチキな宝石を鏤めた王冠を被っている。
新アルバムと過去のアルバムの曲を混ぜて聴くことで感じた、変わることのない彼らの楽曲の本質は、まず表現すべき世界が先行し、その受肉化の過程にバンドが奉仕している、ということだった。開演に遅れたので新アルバムの一曲目 (ごbるgぼぼ、といった感じで発音不可能な音で 読んで/呼んで いる) は既に終わっていたと思っていたのだけれど、驚いたことに本編最後に演奏されて、今までのシガー・ロスではありえない盛り上がりを見せた。
 

"Gobbledigook" (必見PV!)
 
観客全員の打ち鳴らす拍子の狂ったハンドクラップ、頭のネジの外れたようなコーラス、ステージカーテンも吹き飛ばす勢いで噴出する赤や黄色や青の紙ふぶき、尽きることの無い多幸感と躍動感が床や壁や天井を突き破って、服を全部脱ぎ捨てて素っ裸で駆け出して、晩秋の東京湾にダイブする!ところだった。
熱烈な拍手でアンコールに突入するもサードアルバムからの一曲でじんわり終了。二時間に満たない短めのライブだったけれど、もう、大満足。
 
その後、渋谷に直行し、長崎ちゃんぽんと餃子を掻きこんで Sigur Rós の雰囲気をぶち壊し、メカちゃんも加えてバンド練。Sigur Rós の悪い影響を受けた混沌とした演奏を繰り広げ顰蹙を買ったのだった。
さて、秋の大物ライブ三連戦は最終戦を残すのみとなった。最後はほんとに待ちに待ったバンド。楽しみ!
 
おすすめライブレポ
鼻水垂らして呆然としていた僕に代わって詳しいステージングについてのレポートはこちらをどうぞ。セットリストもあります。
Sigur Ros live in Tokyo: ツ゛三才ソ
おすすめライブ映像
Bjork と一緒にやっている "Gobbledigook"。音はちょっとしょぼいけど、楽しそうでいいなあ。