デカルト劇場の誤謬

 
心をブラックボックスに仕立てあげたのは、進化でも、知的計画でも、誰でもない、我々自身である。さながら体のいいゴミ箱と言った次第だ。見たくないもの知りたくないもの何でも放り込めるし、便利だよね。藤子・F・不二雄ドラえもん (36) (てんとう虫コミックス)』のひみつ道具ないしょごみだしホール」参照。穴の向こうの与作もさぞ迷惑しているだろう。岩明均七夕の国 (1) (ビッグコミックス)』の「窓の外」も同様。
文脈が違うにせよ「中の人などいない!」てのは言い得て妙。日本では「中の中」の人が減って「中の下」の人が増えているらしいですが。これは更に関係ないですね。ややこしくてすみません。
「心の闇」を騒ぎ立てる人々に潜む闇こそ我々が勇気を持って覗き込むべきものである。
かつてのニュー・エイジのヒーロー、クリシュナムルティせんせも言ってる。
  
J・クリシュナムルティ
"http://homepage1.nifty.com/spr/flfree/qa21.htm"(邦訳:新しい芽さん)より

 私たちが心の領域内で生きている限り、紛糾があるに違いありません。問題があるに違いありません。それは私たちすべてが知っていることです。心は感情です。心は蓄積された感情と反応の結果であり、それが触れるものは何であれ、きっと悲惨、混乱、果てしない問題をつくりだすのです。心が私たちの問題のほんとうの原因なのです。意識的、無意識的に、夜も昼も機械的に動いている心がです。心はもっとも表面的なものであり、私たちは幾世代も生きてきました。私たちは心を養成しながら、それをますます賢く、まますますこうかつに、ますますずるく、ますます不正直で、ゆがんだものにして、私たちの全体の生を生きてきたのです。そのすべては私たちの生のあらゆる活動の中ではっきりしています。私たちの心の性質そのものが不正直で、ゆがんでいることであり、事実に直面できないのです。そしてそれが問題をつくりだすものなのです。それが問題それ自身であるものなのです。
(中略)
 心が問題を解決しようとするとき、それはただ、問題をさらに混乱させ、さらにやっかいに、さらにつらくするに過ぎません。行為が問題なのではなく、心が問題なのです。心は純潔でなければならないと言う心がです。純潔は心のものではありません。心はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。そして抑圧は純潔ではありません。純潔は道徳ではありません。純潔は養成されることができません。謙遜を養成している人はたしかに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれを謙遜と呼ぶかもしれませんが、高慢な人間であり、彼が謙虚になることを求めているのはそういうわけだからです。うぬぼれはけっして謙虚になることができません。そして純潔は心に属するものではありません―あなたは純潔になることはできません。あなたは愛があるときのみ純潔を知るでしょう。そして愛は心に属するものでも、心のものでもないのです。
 したがって、世界中のそんなに多くの人々をゆがめるセックスの問題は、心が理解されるまでは解消されることができません。私たちは考えることを終わらせることはできません。そうではなく、思考は思考者が止むとき終わります。そして全体の過程の理解があるときのみ、思考者は止むのです。思考者とその思考との間の分割があるとき、恐怖が生じます。思考者がないとき、そのときのみ、思考の中に葛藤がないのです。暗に含まれているものは理解するための努力を必要としません。思考者は思考によって生じます。そのとき思考者は彼の思考を形作ろう、制御しようとします。あるいはそれらを終わらせようとします。思考者は架空の実体、心の思い違いなのです。事実としての思考の理解があるとき、そのとき事実のことを考える必要はありません。単純な、無選択の気づきがあるなら、そのとき、事実の中に暗に含まれているものがそれ自身をあらわにし始めます。したがって、事実として思考が終わります。そのとき、あなたはハートと心にくい込む問題、私たちの社会的な構造の問題が解消されうることが見えるでしょう。
               J.クリシュナムルティ「最初で最後の自由」

彼の言葉を想起することは絶頂を遅める*1のにも役に立つでしょう。

*1:「遅める」:形容詞「遅い」の語根に動詞化形態素「める」を付加したもの。語彙として認められていない模様。