逆チューリングテスト

ここのところ解析のためのプログラミングに追われる日々です。プログラミングを毛嫌い(食わず嫌い)していた僕ですが、なんとなく面白みが解ってきました。謂わばコンピュータとの会話ですね。もちろんコンピュータに情緒を感じることはできませんから、いかに効率良く答えを引き出すかという功利性に主眼が置かれるのですが、相手の思考の流れを追うことの醍醐味には共通するものがあります。今まではコンピュータと話したいことも全くなかったわけで、それでは語学に熱が入らないのも当然です。
必要性がない限り勉強というのは進まないものですが、そもそもの必要性を見出だす能力というのが案外重要だな、と改めて感じました。学歴や職業以前に、モチベーション自体が成育環境(階級)に大きく左右されるという近年の指摘は、当たり前と言えば当たり前ですが、なかなかシビアな事実であります。
 
さて、話は変わりますが、コンピュータが人間と同等の知性を備えているかどうかの基準として、チューリングテストと呼ばれる判定法が古くから提唱されています。これは会話の相手が見えない状態で(モニターを通じて会話をします)、その会話の相手が人間なのかコンピュータなのかを見分けるテストです。最後まで人間として認められれば、そのコンピュータは人並みというわけです。
このテストの妥当性は未だなお議論の対象ですが、とにかく現時点では、このテストをクリアする人工知能は存在しません。
 
チューリングテストはあくまで人間の視点からのものです。つまり人間の知性という至高の目標があり、コンピュータはそこに少しでも接近すべきものとして見なされます。
しかし拙いながらもプログラミングに触れて感じるのは、むしろ我々こそがコンピュータの論理力に敵っているかを判定されているかのような気分です。冷酷なエラーメッセージは逆チューリングテスト不合格の報せです。不合格を付きつけられる度に、僕は自らの至らなさを責め、非論理性を恥じ、過ちの大きさに打ち震えます。この、ある種被虐的な快感を伴う作業を繰り返し、逆チューリングテストを突破する能力を身に付けた人間が優秀なプログラマーとなるのでしょう。
 
コンピュータに限らず、利便性や秩序を求めて人間が構築したあらゆるシステムには、システムが人間を試すかのような逆チューリングテスト創発すると言って良いかも知れません。
 
付記(12月29日)
レヴィナス困難な自由 ユダヤ教についての試論』を読んでいたらこんな言葉が。
「人間の解放をめざした運動は人間を自分の造り出した体系の虜囚たらしめる」
しばらく虜囚たらむと思います。