知識労働力体制の下では、システムこそが働く人々に仕えなければならない 

 
タイトルは先日亡くなったピーター・ドラッカーの言です。別に信奉者ではありませんが。
 
大学人の会主催シンポジウム『任期制・年俸制導入と評価制度は大学と教育をどう変えるか』概要ご報告より上智大学・福井直樹先生のお話『アメリカの大学における「任期制」と「年俸制」』を引用させていただきます。

ほんまたけまるのココログさま経由です)

 

全体として見ますと、アメリカの大学はこうだという風に、日本の大学改革の文脈でいろいろと言われている事柄のほとんどは、無知か誤解か、あるいは意図的な曲解か、そういうものに基づいている。要するに、結論が決まっていて(この結論を決めているのが大学人・研究者でないことは言うまでもありません)、そちらの方に話を持っていきたいがゆえに、アメリカでは云々と言うと、まあ、通りがいいから、それで持って来るというケースが非常に多いわけで、そういう物言いには騙されないようにしなくてはいけない。アメリカのシステムを日本で採り入れるかどうかはまた別ですし、日本の社会に合うかどうかも別ですけど、そもそも事実として「アメリカのシステム」なるものの認識が間違っている。

 
福井先生はアメリカで長年カリフォルニア大学アーヴァイン校教授として言語学に携わってきた方です(Chomskyとの共著『The Generative Enterprise Revisited』などもある)が、福井先生がおっしゃるには、「アメリカの大学、特に所謂『研究中心大学』(リサーチ・ユニヴァーシティ)ではほとんど(任期制・年俸制は)採用されていない」ということです。
 
この講演の中ではアメリカの大学教授職のテニュア(終身雇用制度)が、市場原理との壮絶な戦いの中で勝ち取られ、また、絶え間ない努力によって維持されてきた歴史が紹介されています。アメリカの様な市場原理主義のの中に、それとは相容れない評価原理が共存している。その異質な論理を維持していくためには、常に(アカデミックな意味で)クオリティの高い成果を産み出し、社会に対する説明責任を果たさなければならない。そういった緊張があってこそ、現代のアメリカにおける科学の隆盛が在るのではないでしょうか。
 
国立大学は独立行政法人化によって経済原理の中に嫌でも位置づけられることになりました。しかし、ピーター・ドラッカーではありませんが、企業の本質と目的が、社会との関係および企業内の人間との関係にあるとして、大学が(企業的なものに化したにせよ)社会および組織内の人間に対して結ぶべき関係の根本が教育と研究に在ることは依然として疑いようがありません。そして社会との関係、組織内の人間との関係を重視していくことが、健全な経営をもたらすのです(このドラッカー風の考え方はとりわけ大学にこそ当て嵌まるのではないかとも思います)。このように大学に対し経営学的な観方を採るにしても、長期的な視点に立てば、任期制や年俸制の導入がもたらすマイナスは否定できません*1
 
福井先生が指摘されるように、既に結論ありきで一見説得力のある誤った認識を理由付けにする手法は、まま見受けられます(僕自身陥ることが良くあります)が、アカデミズムの場にこれほど相応しくない議論の進め方はありません。昨年の皇位継承についての議論にしても、女系天皇に賛成/反対の双方の論陣から結論ありきでのおかしな論理付けが頻出しました(参照)。
 
結論を留保した上で誠実な話し合いを行う、という民主主義に不可欠な態度が失われてきているのではないでしょうか。そしてその態度こそ、(大学を含めた)教育によって涵養されるべきものであると思います。

*1:しかし、任期制や年俸制のもたらす効果は、そう単純な話ではなく、理化学研究所などは厳しい任期制で大きな研究成果をあげている。研究専門機関と教育を重要な役割とする大学との違いに注意して、より細かな議論をする必要があるだろう