遺伝子の文字を読む/文字を読む遺伝子

難読症 dyslexia とは、一般的な知能に異常は見られないにもかかわらず、文字の認識や書字に困難を抱える症例一般を指します。難読には(幼児期からの)発達性のものと(脳損傷による)後天性のものがあり、発達性のものは遺伝的な要因が示唆されています。
難読は非常に多くの症例を含むので全てを同じカテゴリーに括ることには問題があるのですが、アメリカでは全人口の17パーセントの人が発達性の難読に苦しんでいます。トム・クルーズ*1難読症であることはよく知られています。またアインシュタインなども難読だったようです。まだ難読症という概念がそれほど一般的ではない日本では見過ごされている例が多いにせよ、アメリカでの難読症の比率はやや高過ぎるに思えます。実際、音声言語とは異なり、文字は文化的産物であり、文字体系の違いにより症状の軽重に差が見られると考えられます。文字を読む上では、ひとつひとつの文字を音へと結びつけ、そこから意味へと至るルートと、全体の文字配列から意味と音へと直接至るルートの2種類が存在すると言われていますが、英語のように綴りと発音の対応づけが比較的難しい文字体系だと、難読の症状が出やすいようです。逆にイタリア語のように綴りと発音の対応が易しい言語だと難読の症例は少ないようです。また日本語の場合、脳損傷による難読では、前者のルートを用いるひらがなが読めず、文字から意味へと直接至る後者のルートを通ることの出来る漢字のみが読める患者さんが居たりします。
 
Siokらのグループは脳機能イメージングの手法を用い、文字体系によって難読症に関わる脳部位が変わることを示しています(詳細は後ほどコメント)。
 

Biological abnormality of impaired reading is constrained by culture
Siok WT, Perfetti CA, Jin Z, Tan LH.
Nature. 2004 Sep 2;431(7004):71-6

 
このように難読症には、文字体系という文化的な要因が強く絡んでくるので単純な生物学的アプローチは難しいのですが、それにも関わらずこの症状を遺伝子のレベルで解明しようという試みも強力に推進されています。
 

Genes that guide brain development linked to dyslexia
Miller G.
Science 2005 Nov 4;310(5749):759.

 
このScienceの記事に拠れば現在3つの原因遺伝子の候補が上がっているようです。
 
アメリカYale大学のH.Meng & J.GruenによればDCDC2という第6染色体の遺伝子に1塩基多型を見つけたとのこと。ラットにおけるDCDC2の抑制は、新生ニューロンの移動の異常を引き起こすことから、Meng & GruenはDCDC2の変異が読字に関わる神経回路の形成の障碍をもたらしている可能性を指摘しています。
 
スウェーデンのKarolinska研究所のJ.Kereらは第3染色体上のROBO1と呼ばれる遺伝子と難読症との関係を指摘しています。第8染色体の遺伝子がROBO1に入れ換わっている例があるそうです。また難読家系ではROBO1の活性が弱まっていたそうです。ハエではROBO1は左右の脳半球を結ぶ神経を形成する役割があるようです。
 
③イギリスのCaediff大学のJ.WilliamsはKIAA0319という遺伝子が、やはり読字に関わる脳の発達に影響していると提唱しています。
 
このように複数の原因遺伝子が提唱されていますが、それぞれの説が相矛盾するとは限りません。そもそも読字のみに関わる遺伝子などあるはずがありませんから、それぞれが読字に用いられる一連の回路の一部を形成している可能性は考えられます。これらの遺伝子が人間の脳のどの領域に発現するものかは、これからの調査を待たなければなりません。
  
しかし最も注意すべき点は、これらが純粋に言語的な障碍であるかどうかが解明されていないという点です。難読とは(マグノ細胞系の)視覚コントロールの障碍であるとの仮説も多くの研究者から提唱されています。
 
こういった観点に立てば、先ほどのSiokらの研究も文字特異的な処理というよりも、視覚処理の問題として説明できそうです。
この研究の実験2では、提示された文字が中国語に存在するかどうかの課題を被験者に行わせています。その際の脳活動を一般の児童と難読症の児童とで比べると、左右の前頭葉および(文字認識エリアと考えられている)左紡錘状回で一般児の活動が高いことがわかりました。逆に難読症児では(視覚処理の最初期段階にあたる)一次視覚野の活動が高まっていました。
Siokらはこの結果を受けて、綴りと意味とを結びつける処理に関わる前頭葉の活動が中国語の難読では損なわれている、と考えているようです。
しかし、難読症児において一次視覚野の活動が高いことを考えると、そもそも漢字の初期視覚処理に困難があることがわかります(これは著者らも触れていますが)。だとすれば初期視覚処理よりも高次の、綴りと意味とを結び付ける処理が正常に行われるはずがありませんから、前頭葉の活動が下がるのも当然です。
また、提示された文字が実際に存在するかどうかを判断する課題には、綴りから意味を引き出す必要は全くなく、見たことのある図形かどうかを判断すればいいので、そもそも課題の設定自体が不適切です。
どうやらこの研究の結果は表音文字表意文字の違いと言うよりも漢字とアルファベットの(視覚的)複雑さの違いによって得られたものである可能性が高いように思います。 
うがった見方かも知れませんが、この論文がNatureに採用されたのは、漢字を用いた実験というオリエンタルな魅力、文化相対主義的な主張、それから漢字というものに対する誤解(無理解)といった複合的原因があるような気がします。
 
このように文化的な要素を伴う現象を科学の俎上に乗せるのには大きな困難を伴いますが、難読の治療法の可能性も含め、システム脳科学・遺伝学など、複合的な視点で追求を続けていかなければならないと思います。  

*1:トム・ハンクスと間違った。あまり有名でもないかもしれません(笑)。