概念構造は語彙に記載されているか(3) 

(2)からの続きです。
 
3.語彙意味論における理論と実証的研究
ここまで見てきたように、語彙意味に分析的な内部構造を仮定する理論はFLらによる批判を免れないものである。しかし GP が示したのは、まさに FL らが批判する事象構造という動詞内部における分析的内部構造が実際の言語処理に影響を与えている、ということである。この実験結果は語彙意味論の理論にどのような示唆を与えるだろうか。
まず深い議論に入る前に、問題点を簡単に整理しておく。まず、オフラインの言語知識のモデルとオンラインの言語処理のモデルの混同は最も避けるべきである。

言語使用のしかるべきモデルは、話し手・聞き手がもっている言語知識を表す生成文法をその基本的モデルとして組み込むであろう。しかし、この生成文法は、それ自体では知覚モデルや発話モデルの特質や機能を規定するものではない。                            『文法理論の諸相

と、Chomsky (1965) が述べるように、言語知識と言語処理のモデルを同一視するのは現在の言語学の基礎をなす定理から見れば誤りである。また、言語には理解と産出という方向性を異にする2つの営みが含まれ、この違いに関しても注意しなければならない。つまり言語学においては
 
 1.言語知識 (理解) のモデル
 2.言語知識 (産出) のモデル
 3.言語処理 (理解) のモデル
 4.言語処理 (産出) のモデル
 
の4つを区別して扱う必要があるということだ。
これらのモデルはどのような関係にあるだろうか。まずは、言語知識のモデルの延長線上に言語処理のモデルはなく、どんなに言語知識のモデルを探求しても、処理のモデル自体が実証されることはありえないことに注意したい。一方、言語処理のモデルを探求した結果、そこに言語知識のモデルの一面が見出される可能性は存在する。なぜなら言語知識なくして言語処理を行うことは不可能であり、言語知識が言語処理に何らかの制約を与えているだろうことは明らかであるからだ。理解と産出との関係は更に厄介である。理解と産出は全く独立したものなのか、また、そもそもの言語理論の本流をなす言語知識のモデルに関する研究が理解と産出のどちらに焦点を当てたものなのか、は十分な議論が必要である。
さて、以上の点を踏まえた上で、Gennari & Poeppel (2003) が語彙意味に関する議論にどのような視点をもたらすかを検証していく。実際に我々が観察することができるのは言語処理の過程および結果のみである。
Gennari & Poeppel (2003) のデータは確かに2群の動詞の処理が異なることを示している。しかし、この処理の差が動詞の語彙意味に記載された「事象構造」に根差している保証はない。もちろん、ここで対比された2群は「事象構造」の概念を元に分類されたものであるから、「事象構造」的な特性が何らかの形で言語処理に影響を与えていることは推測できる。しかし、その性質が本当に動詞の語彙そのものに内包された意味 (lexical semantics) によるものであるのかは確かめることができないのである。
FLの生成語彙論批判の焦点もまさにその問題にある。確かに我々は事象動詞 ”break” と状態動詞 “possess” との「事象構造」の違いを捉えることが出来る。そして、まさにその直感を定式化したものがLCSだ。しかし、その直感が純粋な語彙意味に記載されているかどうかは確かめることができない。語彙意味としてはただ外延を指定すれば充分であるのならば、それ以上の情報は世界知識として考えるべきであるというのが FL の主張だ。
GP の行った2つの実験はどちらも、意味の処理だけを計測できるパラダイムではない。実験1における文理解の課題において、世界知識が働かない保障はない。また実験2の語彙性判断の課題においては、本当に意味の処理が必要であるかどうかは疑わしい。語彙が存在するかどうかの判断に関する限り、そもそも語彙の意味まで踏み込む必要はない。その単語が辞書の見出しに記載されているかどうかをチェックすれば事足りる。頻度などの統制により、語彙の検索にかかる時間に差が生じないとすれば、語彙性判断の課題によって計測される処理時間の差は、そもそも、その課題の遂行自体には必要のない成分の差であるといえる。その不必要な成分の中には、もちろん語彙の意味処理も含まれうるが、それに加え、世界知識の処理までが含まれないという保障は、やはり、ない。
このように、 GP が検出した「事象動詞」と「状態動詞」における処理の差は確かに存在するが、それが世界知識である可能性は否定できない。しかし、そもそもJackendoff は、心的表象レベルの概念構造が言語的な情報とその他の認知的情報との制約の元にあることを主張しており、純粋な言語知識として概念構造を扱うべきかどうかは議論の余地がある。
以上の点を踏まえれば、意味論において、純粋な「言語知識」というものがいかに計測困難であり、実証的な研究の対象に向かないかは明らかである。我々が触れる言語現象は全て言語知識を運用した結果、出力されたものであり、どのような理想的発話者による文を仮定したところで、言語処理によるノイズを含まざるを得ない。この問題は特に「解釈」を行わざるを得ない意味論においては重大である。
語彙意味が表示するのは外延のみか否か、という Fodor & Lepore (1998) の提起する問題は、そもそも、純粋な言語知識を扱っている点で実証不能な問題であり、理論的枠組みを変更しなければ、これ以上の探求も無意味なものになりかねない。つまり運用(言語処理) と言語知識を乖離させることなく、統合的に捉える枠組みの元で実証的研究を進めていかない限り、意味論における言語知識と世界知識の線引きの問題は免れないと思われる。そして、言語処理と言語知識を統合したモデルにこそ、理論的研究と実証的研究の有意義な交流が生まれうると考えられる。
ハイデガーの次の言葉は示唆深い。

以上の諸先入見を考量してみると、同時に判然となったのは、存在を問い尋ねる問いに対して答えが欠けているばかりではなく、それどころか、この問い自身が曖昧で方向性を失っているということである。だから、存在問題をくりかえすことは、まず第一にその問題設定を十分に仕上げることに他ならないのである。
                   『存在と時間

 
(4)に続く。