カテゴリーという病

 
人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)
 
 
 
 
 
 
 
以前から僕が考えているのは、学問の分野を問わず、難問(アポリア)の解決に立ちはだかっている壁は人間の認知様式を自覚しなければ超えられないのではないか、ということだ。これをことさらにくだいて言えば、養老孟司先生の『バカの壁 (新潮新書)』とほとんど同じようなものになるのかもしれない(未読のためいい加減なこと言ってます)。
ジェンダーや人種など、カテゴリー概念が問題になることは非常に多い。カテゴリーが実在するかどうかという問いには実在論唯名論の長い論争の歴史がある。僕としてはうんと単純に言えばカテゴリーは実在する、という立場を取りたい。しかし、それは僕らの心の中に実在する、というほとんど唯名論的な意味での実在だ。「心的実在」を信じるという意味では実在論であり、ここまで来るともはや「実在論 v.s. 唯名論」という二項対立は意味がない。
人間には(ある種の動物には)、連続した現実を離散したカテゴリーとして認識する能力というか、傾向というか、が存在する。カテゴリー認識は僕たちの避けられない病である。
厄介なことに、人間は自らの認識ゆえに生じたカテゴリーを実際の行動に適用し外界を操作する。そうなると心の中で生まれたカテゴリーが自然界に根付き始める。人種差別が行われば、「人種」が可視化されてしまう。差別されている人々にカテゴリー化認識の能力が向けられれば、当然そこにある「人種」が生まれる。このように極めて人間は再帰的な存在であるからこそ、実在論唯名論の争いは馬鹿馬鹿しくなってくる。
この時、「人種というカテゴリーは社会的構築物である」という主張は勿論ある程度妥当なのだけれども、差別されている側からすれば「私は確かに○○(人種)であるし、差別されている現状は虚構でもなんでもない、確かな現実である。甘いことを言うな」という反感が抱かれるだろう。「人種」は差別する側にとっても差別される側にとっても確固たる実在となってしまうのである。ナチスの恐るべき行為は「優秀な人種による劣等人種の淘汰」という誤った進化論的概念をほとんど真理にしかけたようなものだ。
このようなカテゴリー認識に関する問題に対しては、「社会的構築」という題目を唱え続けることだけでは対処療法となってしまい、対応が後手後手に回ってしまうのではないだろうか。問題の根はカテゴリー認識という僕たちが抱え込んだ病にあるのだ。しかし、この病は治療不可能だ。その現実を見据えて思考していく必要があるのではないか。
 
Genes, Categories, and Species: The Evolutionary and Cognitive Causes of the Species Problem
 
 
 
 
 
 
 
 
こんなことを進化における種の問題の話を蒼龍さんとしながら考えていた。するとこの問題にずばり切り込んでいる本があることを三中信宏先生の書評で知った。タイトルは『Genes, Categories, and Species: The Evolutionary and Cognitive Causes of the Species Problem』。三中先生の書評の題もずばり 「【種】は 「認知心理的」存在である」 だ。「社会的構築物」 という責任の所在を曖昧にしかねない表現(社会ってどこにあるの?誰が構築したの?)より、こちらの表現のほうが僕はよほどしっくり来る。「社会的構築物」という表現をそれこそ「脱構築」すると「認知心理的存在」になると言ってもいいんじゃないか。本はまだ手にしていないので三中先生の書評から印象的な言葉をいくつか引用させていただきます。
 

  • 種問題の核心は「ヒトによるカテゴリー化」の性質にあり.そして,われわれによる認知カテゴリー化は生物多様性を理解する上でしばしば障害となります.種問題とはヒトが罹患する一種の「病気」であり,その「やまい」とともにいかに生き続けていくのかが,今後の大きな課題となります(p.viii).

 

  • 形而上学で言うカテゴリーとはものの類(kind)です.もともと SPECIES という言葉は,生物学で用いられる前に,この形式論理学の世界で長く使われてきました.Darwin 自身は species は他のランクと本質的に違いがないとみなしてきました(p.8).しかし,皮肉なことに,現代の生物学者はむしろ後退してしまって,species は自然界に存在する distinct real things であり,変種などとはことなるランクであるとみなしています.

 

  • 種の計数ができないとしたら,どうすればいいのか−species は「実在」するという仮定そのものを外した上,human mind の介入があるのだとみなせばいいだろうというのが著者の意見です(pp.24-25).Quine の言語論を踏まえて,著者は species に関する生物学側の立場だけでなく,SPECIES をめぐる言語学認知科学側からの視点が必要になるだろうと結論します.

 

  • では,種という自然類が実在しないとしたら,それは何に由来するのか?−著者はここで認知心理学をもちだします(pp.53ff.).すなわち,カテゴリーが「心の中に存在する」ならば,種もまた同じだろうということです.認知的なプロトタイプ効果や George Lakoff の言う「embodyment」の理論がここで紹介されています.認知的な自然類はわれわれの自然観をどのように歪めてきたか−「生物学者はカテゴリーが何よりもはじめに心の中に存在していることを知るべきだ」(p.60)と結ばれます.

 

  • 最近の種論議では,不思議なことに,この唯名論の立場が表立っては表明されなくなりました.ダーウィンはもちろん唯名論者−正確には「レベル唯名論(level nominalism)」:分類学的ランクに関する唯名論(p.178)−でした.レベル唯名論をたとえて言えば,「流れる水」という現象の存在は実在するが,その「流れ」を「せせらぎ/渓流/河川/大河」のいずれのランクで呼ぶかは恣意的であるという考えに相当する.高次分類群に関しては,程度の差こそあれレベル唯名論が広まってはいるのですが:種 だ け は 別 格 の カ テ ゴ リ ー で あ るという信念は強固に残存しています(p.179).この「species category realism」が本書の最後の標的となります.

         (一部レイアウトが崩れて申し訳ありません)

 
人間の(生得的な)認識様式を直視しない限り、問題の解決はありえないという意識は例えばピンカーとも共通する。ピンカーは『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)』で次のように述べる(研究室に本を置いていないので人間の本性 (追記あり) - 諸悪莫作さんから孫引きさせて頂きます)。
 

人間の本性が存在するという考えは、私たちに迫害や暴力や強欲さを永遠に負わせる反動的な教義ではない。有害な行動を減らす努力はもちろんすべきであって、それは飢えや病気や自然災害などの苦しみを減らす努力をするのと同じである。しかし私たちは、やっかいな自然界の事実を否定することによってそうした苦しみと闘うのではない。事実の一部をほかの事実と対抗させることによって闘うのだ。社会の変化を目指す努力を効果的なものにするためには、ある種の変化を可能にしている認知的、道徳的リソースを突きとめなくてはならない。そしてその努力を人道的なものにするためには、ある種の変化を望ましいものにしている、普遍的な喜びや苦しみを認識しなくてはならない。(P74)

 
すごく乱暴な読みなのだけれど、最近の宮台真司の「自己決定の中に現れてくる歴史性・共同性」みたいな話とも意外と親近性を感じる。そんなこと言うと、やはり進化論者は右翼だ、みたいな誤解を生みそうだけれど。専門の方、未熟な思考にどんどん突っ込んでください。