ペギオ勉強会①

第1回。それぞれ複雑系物理学と知覚哲学と脳科学を専攻する計4人が集合。いかにも胡散臭い集会。次回からはミュージシャンも参加するかもしれないらしいから、ますます怪しい。
 

Ontological measurement
Gunji YP, Ito K, Kusunoki Y.
Biosystems. 1998 Apr;46(1-2):175-83.

 
Ontological Measurement は思ったほど読みづらくはなかったが、非常に凝縮された内容のため、詳細な議論には向いていないということがわかり、次回から
 

Observational heterarchy enhancing active coupling
Gunji, Y.-P., and Kamiura, M.
Physica D (2004) 198, 74-105.

 
をきちんと数学的に読み解いていくことに。この論文は若干内容を圧縮して『複雑さへの関心 (複雑系叢書)』にも日本語で収録されている。
 
複雑さへの関心 (複雑系叢書)

カテゴリー論についてはカーネギー・メロンの Steve Awody の教科書 "Category Theory" で勉強することにした。こんな大著がフリーで手に入るとはありがたい。
 
とりあえず今日は郡司さんの最新刊『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル (講談社現代新書)』の序論をじっくり読んだ。この本は4日ほど前に入手して1章くらいまで読み進めたのだけれど、改めて詳細な議論を始めるとなるとかなり骨の折れる本だった。
 
まず郡司さんはモノとこころの二元論に「マテリアル」という第3項を加えて「生きていること」に迫ろうとうする。郡司さんは我々の認識や一般化された表現は「モノそれ自体」に到達することはなく、常に外部に何かを追いやってしまうと指摘する。そのような認識行為では「生命」だとか「こころ」だとかを掴むことは出来ず、ただモノを描写するだけになってしまう。とはいえ我々は日常においては、直感的に、感覚的に、世界のリアリティーを感得している。つまりモノとリアリティーという通約不可能な二つを媒介する作業を行ってしまっている。これは何によって可能になるか?それはモノとこころを区別しながらも自らを解体するかのような作業によって達成されているという。この特殊な観測作業 (存在論的観測) こそが郡司さんがカテゴリー論を駆使して表現したい勘所である。
 
議論が紛糾したのは郡司さんの用語法に曖昧なところがあったから。例えば、 
 
4ページ目の3行目

むしろマテリアルは、認識という行為を通して、絶えず認識の外部に追いやられ、決して理念的概念として一般化されないモノそれ自体、と言っていいでしょう。

 
4ページの10行目

しかし、それらモノとしての記述は、理念的言葉による表現であり、一般化であって、この目の前にある石の「そのもの性」は、失われていきます。このように、認識によって、認識外の前にある石の「そのもの性」、それをマテリアルの影と言うことができるでしょう。

 
この二つの文を比べると、認識という行為によって外部に追いやられるのは、「マテリアル=モノそれ自体」なのか「マテリアルの影=そのもの性」なのかという点で混乱している。郡司さんの言う「マテリアル」とは天上にある「イデア」みたいなもので、われわれが知覚する「そのもの性」はその影に過ぎないかのように取れてしまうが、郡司さんが本当に言いたいことはそうでもないようである。
 
この本は新書であるだけに、その他の郡司さんの本よりはくだけた表現が多いのだけれど、その分、曖昧なところも多く、実は数学的な議論を理解した後に戻ってきたほうが正確な読みが出来そうである。そこらへん保坂和志の言っていることはもっともなようだ。
 
クーラー効き過ぎで寒かった。