現象学と脳科学のあわい(愚察)

 


 
メルロ=ポンティの言う「身体図式」とは、すなわち因果の連関ではないだろうか。
因果の連関は特に個人の身体内部において生理学的・解剖学的性質により濃密さを増し、中枢神経系において、その極大点に達する。脳が自我の中枢として記述されるのはこの物理的特性による。
この因果の濃度曲線は、当然、身体と外部との境界で急下降する。しかし、因果の連関は身体と外部の境界で断絶されるわけではない。車の運転の習熟によって、もしくは盲者の杖の先まで、拡張されていく身体図式は、経験(学習)に伴う因果連関の緩やかな拡張的な変化を反映している。
また因果の連関は時間とともにダイナミックに変容する。対象に強く集中しているとき、また道具を支障なく滑らかに使用しているとき、対象や道具は人間と強い因果関係をとり結ぶために、それらは身体図式の中に組み込まれる。道具が道具として、対象が対象として意識されるのは、因果の連関が攪乱されるときであることはハイデガーも指摘している。芸術や交媾の陶酔がもたらす自己と他者との融解は、まさに身体外部との強い因果連関の中に身をおく為に他ならない。
中枢神経の振る舞いは通常の知覚においては相対的な「不変項」であるがゆえ、表面上には直接知覚が成立する。しかし例外的な知覚現象(例えば錯覚)から明らかになるように、中枢神経系は意識現象の記述に欠かせない契機である。意識は、対象と観察者が渾然一体となった系から立ち上がってくるのである。
脳の重要な特徴は、その生理学的特性により、自律的に因果連関を変容させ、そこから創発的に母集団、すなわち「自己」を決定する性質を持つことである。これこそが人を現存在たらしめる。もちろん、意識現象は健常なホモ・サピエンスのみに固有なものではなく、因果連関の局所的な濃淡に対応して、グラデーションを伴って遍在すると考えられる。
自己はア・プリオリに決定されない。場当たり的に自己は創発する。
その瞬間、その瞬間ごとの緩やかな因果の濃淡を思い描くこと。時空の無限遠まで達する因果の波を想像すること。「“新たな自分”探しの旅」は生まれ落ちた瞬間から絶え間なく続いている。
…なんて、冗談は休み休み言いたい。まだ練り練り中。