プレイバック、プレイバック。

 
僕たちはCDプレイヤーだとかiPodだとかで音楽を聴く時、当たり前に「再生ボタン」を押す。日常の意識じゃあ、「再生」イコール「ミュージック・オン」といった気分だ。けれどもよくよく言葉に気をつけてみれば、この操作は「再」生である。
何が「再」なのか。
もちろんミュージシャンの演奏 (= 「生」 Live) が「再」、なのである。けれども、現代の音楽は、マルチトラックでそれぞれの楽器が別々に録音されていたり、過去の音源がサンプリングされていたり、ラップトップで制作されていたり、で、楽曲の演奏されたオリジナルの瞬間というものを見出すことは、不可能だ。再生されるべき対象をもたないまま僕らは日々「再生」ボタンを押し続ける。
 
http://d.hatena.ne.jp/Asay/20060707/1152291650より。

けして上手なわけではないけれど、僕は夜に必ずギターを弾く。眠る前に必ず二曲をぽろぽろとやって、それから電気を消して眠りにつく。歌をうたってもうたわなくても、とりあえず指を動かす。僕にとってそれはだらだらと続いている日課で、一日の終わりか明日の始まりを告げるための儀式のようなものだ。目をつぶっていても指が動く。サニーデイサービスの「胸いっぱい」、スピッツの「アパート」。もう好きとか嫌いとかで語れないくらい、僕は指でこの二曲を感じている。

 
こういう曲って、もう、体のイメージなしでは存在しえないんだよなあ。フレットの上を滑る手のイメージや、指に食い込む弦の感触、左手のコードを押さえる形、ありとあらゆる要素が曲の中に溶け込んでいて、音を聴くだけでそういった身体のざわめきが滲み出してくる。
バンドで演奏したことのある曲だと、ドラムの彼がライドシンバルを振り向きざまに叩く様子だとか、ギターの彼と目を見合わせて歩調を整える時の感覚だとか、ボーカルの彼の昂ぶりに合わせての弦のはじき具合の微妙な調整だとか、それから汗やステージの熱やアンプの吐き出す温風の匂いやバスドラムの振動や照明の眩しさやお客さんの反応や、兎に角ありとあらゆるものが染み込んでいる。
こんなふうに感覚受容器を総動員して音楽を感じられる時、下手糞ながらも楽器をやっていて、バンドをやっていて良かったなあ、と思う。僕には再生できる瞬間が確かに存在する。
 
先日コンビニで、普段は手に取らないファッション誌が目に留まった。表紙が甲本ヒロトだったから。思わず手にとりページをめくると、「バンドなんて実在しないんだ」という見出しで、インタビューが載っていた。
「バンドは一瞬、蜃気楼とかオーロラみたいに現れる。それは全員が集まって汗かいて演奏してる瞬間、そこにあるだけで。」
不覚にもコンビニの片隅で涙ぐんでしまった。バンドの実在を否定することで、逆に、それ以上に、かけがえのない瞬間を強く肯定している、そう感じた。彼の音楽は、ずうっと、そういう瞬間だけを表現し続けてきた。そして、おこがましいけれど、僕が大学時代に組んでいたバンドをそれに重ね合わせてしまった。何かを共有しているだとか、趣味が似ているだとか、そんな瑣末なことよりも、4人で音を合わせた瞬間に襲ってくる強烈な衝動、それこそが僕を駆り立てていた。その鮮烈な瞬間を僕がどれほど必要としていたか。その蜃気楼だけを頼りにして、不安な毎日をなんとか生き抜いてきたんだった。僕たちのバンドは下手糞で、真面目に音楽を追求していたわけでもないけれど、あのステージ上での瞬間だけは強く肯定していいのだ、と言ってもらえたように感じた。
雑誌を棚に戻しながら、大学卒業後散り散りになったメンバーと久しぶりに連絡をとってみよう、と思った。僕が必要としているのは「再生」じゃなくて、やっぱり「生」だから。バンドなんて実在しないけれど。
 
ちなみに14歳で初めてギターを手にした僕が最初に覚えた曲はスピッツの「チェリー」。チェリーボーイ、チェリーで初体験。