脳神経科学の可解モデルへの射影

土曜日のこと。
理論神経科学・情報統計力学などを専門とする岡田正人先生の特別講義に参加。すげー面白かった。

統計力学脳科学情報科学とのまじわりを語るとき、Hopfield の名前を無視することはできない。彼の影響を受けた多くの物理学者は脳科学に参入し、現在その分野で確固たる地位を築いている。Hopfield モデルは記憶や認知の素過程がアトラクターによって担われているという仮説を生み、その仮説は高次視覚野や記憶を司る海馬で実証されつつある。その一例として、側頭葉の顔反応細胞に関する知見を紹介する。もうひとつの流れは確率的情報処理への情報統計学的アプローチである。ベイズ統計と統計力学の数理的な類似性に基づき、統計力学的手法が確立推論、機会学習に適応され、成功を収めている。Hopfield モデルを出発点に、情報統計力学が最も成功した誤り訂正信号と移動体通信技術である CDMA を紹介する。これらの実例をもとに、従来の物理学が研究対象としてこなかった複雑系に対して、可解モデルを中心とした統計力学的手法でどのように接近するかの私見を紹介する。



主に扱ったのは以下の論文。

Population dynamics of face-responsive neurons in the inferior temporal cortex
Matsumoto N, Okada M, Sugase-Miyamoto Y, Yamane S, Kawano K.
Cereb Cortex. 2005 Aug;15(8):1103-12. Epub 2004 Nov 24.



Hopfield モデルで連想記憶モデルをシミュレーションし、その挙動と実際のニューロン活動を比較する。具体的にはサルに対して、ヒトやサルの顔の写真を見せたときのIT野のニューロンの活動を多次元ベクトル空間で描き、PCA (主成分分析) で寄与の大きい軸を選び出し、その挙動を解析する。90-140 ms ほどで単純な図形に対する活動、ヒトの顔に対する活動、サルの顔に対する活動のクラスターがそれぞれ分離し、140 - 190 ms ほどで、ヒトの顔に対しては各ヒト個体の顔ごとに活動のクラスターが分離し、サルの顔に対しては表情ごとに活動のクラスターが分離する。つまり最初にグローバルな分類を行い、その後細かい分類を行う。
これと同じような挙動をやはり Hopfield モデルもとる。個々の顔を記憶すると、それらの混合状態は自発的にアトラクターとなる。識別を行う際にも、混合状態がまずグローバルなアトラクターとして働き、その後に個々の顔アトラクターへとひきつけられていくらしい。
IT 野の顔ニューロンの集団ダイナミクスと Hopfield モデルの類似を説明した後、今度は話は一気に変わって、携帯電話の通信技術として使われている CDMA のメカニズムについての説明。ここでは統計力学情報工学とが共通の数理で近似可能だという話。う〜む、少し記憶が薄れていて、Hopfield モデルがどう関わってくるかの詳細は失念したけれど、うまい近似を見つけると別の分野で培われた手法が案外容易に導入可能になり、問題解決に近づく、という主旨だったはず。
この話に続けて最後に岡田先生が強調したのは、脳科学にしても、情報科学にしても、遺伝子ネットワークにしても、複雑な挙動を示すシステムを、そのままカオスとして扱うよりも、まず、それぞれのシステムを可解な空間に射影して、その空間で物事を考えていこう、ということ。そうすれば可解空間の中では共通のテクニックで問題に取り組めるだろう、ということだ。
最近は、複雑なものを複雑なまま扱おうというアプローチに心惹かれていたのだが、いざ、研究例を出されて説得されると、可解モデルというのは強力だなあ、と感じる。岡田先生のアプローチが誠実な印象を与えるのは、問題そのもののベクトルは見失わずに、その射影として可解モデルを捉えているところだ。その直交成分として非可解性は残るのだけれど、見たいのはベクトルそのものであることは強く意識している。