意味と形式の狭間で

新しい実験の刺激文*1作りのために月曜日から言語学の先生と一緒にミーティングを重ねている。
見たい効果は統語すなわち文法形式なのだが、言語である以上、そこに意味が付帯する。意味の要素が見たい効果を打ち消したりしないように、様々な状況をイメージして、妥当と思われる文をいくつもいくつも作る。徹夜続きの頭をフル回転すると、普通じゃ在り得ないような単語の組み合わせが、いくつもいくつも、生まれてきて、そのイメージの豊饒さにくらくらする。このまま発狂して詩人になってしまうのではないか。
午後、形式言語学の勉強会に参加する。『オートマトン言語理論 計算論〈1〉 (Information & Computing)』を読み進める。僕が 3 週にわたって担当してきた 7.1 節が終わる。文脈自由言語のチョムスキー標準形への変換のところ。教養課程以来、厳密な数学的思考の訓練を受けていなかったので、諸定理の証明にかなり手間取った。当初はこんな形式的な議論が実際の言語にどう関わって来るのかが掴めず、面白さがわからなかったのだけれど、意味を全て取り払って、極めてロジカルにフォーマルに展開していく心地良さが脳髄に染み込んできた。刺激文作りで腑抜けた頭にはちょうどいい中和剤である。
意味を捨て去ることの良し悪しは抜きにして、コトバの向こう側に鬱蒼たる数学の森を見出したチョムスキーの業績は、やはり、すごかったのだと思った。この教科書は第二版で、大分、コンピューター計算論拠りの実用性を重視した記述になっている。第一版も僕は持っていて、そちらはもう少し数学的に丁寧な記述のよう。両分野は次第に共通言語を失いつつあるのだろう。50 年のうちにチョムスキー言語学情報科学を成果 (yield) とする巨大な樹木を育て上げたのだった。
ところでこの本は章ごとに訳者が異なり、訳者ごとに訳語も異なる、という混乱をきたしている。例えば yield の訳語は成果と産物。transition の訳語が遷移と推移。このぐらいは編集でどうにかして欲しかった。1, 5, 6 章の翻訳がこなれていて、ここらは野坂昭弘さんの担当。偶然、今平行して呼んでいる『不完全性定理―数学的体系のあゆみ (ちくま学芸文庫)』と『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』は野坂さんの著書と訳書。
勉強会から戻ってきて、また刺激文作り。意味、意味、意味。

*1:刺激的な文という意味ではなく、心理的なもしくは視覚的な刺激=インプットとして用いる文のこと。