植物状態における意識の検知

 
認知科学徒 News Memo さんのところでも関連するニュースがたくさん紹介されていました。短いので論文本文を全訳してしまいました。
 

 

Detecting Awareness in the Vegetative State
Owen AM, Coleman MR, Boly M, Davis MH, Laureys S, Pickard JD
Science. 2006 Sep 8;313(5792):1402

 
植物状態 vegetative state とは現代医学において最も理解が遅れ、倫理的にも問題を抱えているもののひとつである。植物状態とは、昏睡状態から生じ、患者は起きているように見えるが全く意識 awareness がないように見える独特の障碍のことを指す。診断は主に、外部からの刺激に対する合目的的な行動が行われたことの再現性のある証拠がないことに基づいて行われるが、近年の脳機能計測は、植物状態と診断された患者の中にも、脳機能の維持された「島」を持つものがわずかながらいることを示唆している。従って、脳機能計測の技術を用いれば、植物状態と診断され、標準的な医学の規準においては検知不可能であったが、依然として認知機能を保持している患者の意識 conscious awareness を見出すことが可能かもしれないという仮説を我々は立てた。
2005年6月、23歳のある女性は交通事故によって重篤脳損傷をおった。5ヵ月後、彼女は依然として外界に反応を見せず、睡眠-覚醒のサイクルを繰り返していた。国際ガイドラインに基づいた多分野チームによる臨床評価は、彼女が植物状態に関する全て基準を満たしていると結論付けた。
我々は機能的核磁気共鳴画像法 fMRI を用い、会話文を提示している際の彼女の神経応答を計測し(例:"There were milk and sugar in his cofee")、音響的に一致したノイズ・シークエンスを聞いている際の反応と比較した。その結果、言語特異的な活動が両側の中側頭回、上側頭回に見られ、これは、健常なボランティアが同様の刺激を聞いている際のものと同様であった(図S1) 。更に、曖昧な語(イタリック表記)を含む文(例:"The creak came from a beam in the ceiling")は、健常者に対してと同様に、左下前頭領域に付加的な有意な活動を生み出した。この曖昧な文に対する増加した活動は、発話の理解に必須である意味処理の操作を反映している。
意味のある発話文に対しての適切な神経応答は、人が意識を持っている consciously aware ことの示唆的な証拠ではあるが、絶対的なものではない。例えば、潜在的学習やプライミングに関する多くの研究は、麻酔状態や睡眠時における学習に関する研究と共に、発話の知覚や意味処理といった、人間の認知のある一面が意識のない場合にも進行していることを示してきた。
意識に関するこういった疑問に答えるために、我々は二つ目の fMRI 実験を執り行った。この実験では被験者は、スキャン中のある特定のタイミングで、二つの心的イメージ課題を行うように音声で指示を与えられた。ひとつはテニスの試合を行っているところをイメージする課題であり、もうひとつは彼女の家の表玄関から始まり、全ての部屋を歩き回るところをイメージする課題である。テニスをしているところをイメージしている時には、有意な活動が補足運動野で見られた(図1)。一方、彼女が家を歩き回っているところをイメージしている時には、海馬傍回、後頭頂葉、外側運動前野に有意な活動が見られた(図1)。彼女の神経応答はスキャナー中で同様のイメージ課題を行った健常者のもの(図S2)と同じだった。
これらの結果は、植物状態の診断における臨床的基準を満たしているにもかかわらず、この患者が発話命令を理解し、発話や運動でなはく、むしろ、脳活動を通じて応答できる能力を保っていることを裏付けている。それ以上に、特定の課題を与えられたときに、イメージによって著者らと協同することを決定したということは、明らかな意図的行為を表している。従って、彼女に自分や環境に対しての意識があるのかどうかへの疑いを決定的に退けることができる。もちろん、このような患者におけるネガティヴな発見は、意識が欠如していることの証拠として用いることはできない。なぜなら偽陰性の発見は脳機能イメージングではよくあることで、健常者においてでさえ在りうることだからだ。とはいえ、このケースの場合、練習やトレーニングを全く必要とせずに再現性があり頑健な課題に依存した指令への反応が見られたということは、植物状態や最小限しか意識がない、もしくはロック・インであると診断されるようなコミュニケーションの不可能な患者が、彼らの残された認知能力を用い、神経活動を調節することで、彼らの意思を周囲に対し、伝達する方法がありうることを示唆している。
 

 
もう少しいろいろ読んでからコメントしてみようと思うけれど、とりあえず偽陰性に関する議論は重要。仮にイメージングによって意識プロセスに関するはっきりとした証拠が得られなかったとしても、その患者に本当に意識がないとは言えないということだ。今のfMRIの技術で検出不可能であっても、場合によっては意識があることが示せる可能性があるということ。科学技術が人間の意識状態を規定しつつある現在、常に偽陰性の可能性を胸に刻んでおく必要がある。現に、今の臨床基準の偽陰性(?)がこの研究で明らかになったわけなのだし*1
もうひとつ言うと、将来的に技術が意識の有無に関して決着をもたらすかのような印象を受けやすいけれど、最終的には人間がどこかで判断して線引きする(もしくは全く線を引かない)しかないのだということ。何せ神経細胞の活動自体は純粋な物理法則にしたがっているだけだからだ(こう考えている科学者が大半だと思う)。発話に反応を示すだけか、もしくはイメージ想起を行っている可能性があるか、は脳の活性の程度の違いでしかないと思う。意識の有無を決定付けるクリティカルな境界は存在しない、そう僕は信じている。
結局ここでもモノを言うのは人間の持つ「共感力」の持つ暴力性なのではないか。どれだけ「患者が意識が持つこと」に共感できるか。させられるか。そういった政治性は命の関わる現場でも避けられないように思う。
コミュニケーションの難しい相手(実は全ての生き物がそうなのだけれど)に「共感」によって様々な投影を行うことの暴力性は子猫殺しに関する議論の両陣営にも見られたりする。僕は、頭が痛くなるので、ペットは飼わないことで表面上回避だ*2

*1:偽陰性とは純粋に確率的な問題で検出に失敗することなのだとしたら、原理的な失敗とはまた別の話なのだけれど、その辺りが混乱する。一部の技術的な進展は根本的な検出能力の革新をもたらすけれど、残りの一部は単に推定確率の向上のみをもたらす、というのが中途半端な理解。

*2:仮に僕がかるはずみに主張するように、ペットを飼うことが非道な行いであるとしても、それをある日人類全員がやめるとしたら、それはそれでまた非倫理的な行為である。