頭痛は頭痛もち 物理主義は汎心論を含意するか

 

 
Galen Strawson らによる論文集『Consciousness and Its Place in Nature: Does Physicalism Entail Panpsychism?』 に対する Jerry Fodor の書評 "Headaches has themselves" (London Review Bookshop) を翻訳しちゃった。

追記: 『Consciousness and Its Place in Nature: Does Physicalism Entail Panpsychism?』 の冒頭のストローソンによる論文 "Realistic Monism: Why Physicalism Entails Panpsychism" が彼のサイトからフリーで読めます(HP)、(PDF)。
 
代表著者のギャレン・ジョン・ストローソン (1952~) は、日常言語学派の大物ピーター・フレデリック・ストローソン (1919~2006) の息子。
僕はまだストローソンの論文は読んでいないのだけれど、フォーダーの解説によれば、物理主義の徹底の先に汎心論に行き着く、というなかなか強烈な主張のよう。ジョンの魂、ここに極まれり。
彼は自由意志についても論文を多く書いており、自由意志は実在しない、という立場を取っている。今、訳している途中のデネットの論文でも取り上げられ批判されているのだが、汎心論的主張との関連性は不明。
 
ストローソンの議論のポイントは意識の「創発*1を認めないところにあるんだろう。ここは難しいところだ。観察可能な客観的事象に関する創発現象は直感的に理解が可能だ(結局は物事のありさまを認識し、命名し、記述するのは人間の側なのだから、人間にとって予測できないような振る舞いが生じたとしても、物理現象そのものとしては、ただ、そこにあるだけで、何の不思議もそこにはない)けれど、果たして主観的意識が創発する、とは一体どういうことなんだろうか。創発現象によって意識を説明しようとしている人自身にも、実は府に落ちていないんじゃないかと思う。(知能がニューロン集団から創発するのはいいとしても)無意識の物質から意識が生じるには、ただ予測出来ない振る舞いが出現する以上の大きな溝を乗り越えるがあるように思われる。だって意識ってのは、人間に認識され名指されることでその性質が明確になるようなものではないからだ。というよりむしろ認識することも名指すこともできないものかもしれない。だからこそ意識に関する議論は錯綜する。意識とは、こちらがどう名付けるかに関わらず、ただ、そこにあるもの。自ら然らしむるもの。
けれども直感的な苦しさという面では汎心論もどっこいどっこいで、僕はどちらかといえば、やはり、創発のほうにまだ分があるんじゃないかとおぼろげに考えている。といっても、ただの「創発」ではやっぱりだめなんだろうな。その点では意識の創発を基本原理として、それ以上の説明を拒否するフォーダーには開き直り的な強力さがある。しかし科学的精神が悔しがる。むう。
 
ところで、ストローソンの考えの中で最も強く同感を覚えたのは物体とその性質の区別を拒否する姿勢だ。フォーダーはそれでは反実仮想が無意味になってしまう、という反論をあげているが、まさに反実仮想は無意味と言ってよいのではないだろうか。
分析哲学の一派においては(主流かどうかは置いておくとして)「豚が空を飛ぶ」ことは物理的には不可能だが、論理的には可能とされる。僕にはこれが以前から全く納得がいかなかったのだ。豚という存在に関して十分な知識を有していれば、飛ぶことが出来ないという帰結は明らかではないか。いったいどんな論理をもってすれば豚が空を飛ぶというのだ。豚という語には詳細な物理的構成に関する記述は含まれない、という反論が起こりそうだが、それは単に当人の「豚」の概念辞書の記述が貧しいだけなのではないだろうか。少なくとも僕の豚辞書を精査すれば豚が空を飛ぶことは偽である(分析的命題と総合的命題は分離していないとする立場をとる)。反実仮想は、確かに、豊かな想像力を要するのだが、実は想像力の限界をも明らかにしているのだ。詳細な物理的実現まで想像を働かせれば、反実仮想はそもそも不可能である。つまるところ現実世界に関する命題である以上、物理的に不可能な事象は論理的にも不可能なのではないか、ということだ。
豚を遺伝子改造して空飛ぶキメラを人工的に創り出すことが出来たとして、その時、そのキメラを豚と呼ぶべきかどうかは、僕らの自由だ。もしそのキメラを依然として豚と呼び続けるとしたら、その時、初めて「豚が空を飛ぶ」ことは物理的にも論理的にも可能になる。しかし、その時僕らの「豚」の概念は以前とは異なるものに変容を遂げているのだから、当初の豚概念と同様に扱っていいはずがない*2
そもそも意識の問題をハード・プロブレムとしたデイヴィッド・チャーマーズの『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』が、やはり、物理的可能性と論理的可能性の区別から議論を進めており、この区別を拒否すれば彼の結論(心身二元論)も当然成り立たなくなってくるのだから、ここは非常に重要なポイントだ。
まあ、ここら辺は気焔を吐く前に僕自身もっと勉強しなければならないところだ。とりあえずクワインをちゃんと読もう。有識者にコメントを賜りたいです。
 
ごちゃごちゃと前置きが長くなりましたが、以下、フォーダーの書評です。どうぞ。
 

意識はまさに今、大流行だ。意識自身についての新雑誌が意識の自慢だ(アカデミックな記事はそこから溢れ出てくる)。神経心理学者は fMRI マシーンでその写真を(カラーで)撮って、脳の中の座席を針で調査している。春夏秋冬、多くの大陸で開かれる意識に関する学際会議は、哲学者、心理学者、現象学者、脳科学者、医者、コンピューター科学者、ダライ・ラマ、小説家、神経学者、グラフィックアーティスト、聖者、教祖さま、(そして必ず)かつての物理学者、といった奇妙なごちゃまぜ集団を惹きつける。補助金は、惜しみなく意識研究の研究所に交付される。単に意識のあるものと意識的に利用可能なものの間で綿密な区別がなされる。そしてこれらの各々と前意識、無意識、意識下、情報的に遮断されたもの、内省することができるものの間にも線がひかれる。火曜日のニューヨーク・タイムズの科学記事に意識に関するゴシップが尽きることはない。ノーベル賞受賞者は周期的に、意識と進化、量子力学情報理論複雑系理論、カオス理論、ニューラルネットの活動といったものとの関係について意見を述べる。誰もが誰もに対し意識について講義する。とはいうものの、みんなが最も憂慮する問題については何一つ明らかにされていない。哲学者が「ハード・プロブレム」と呼ぶようになったものだ。「世界が単なる物質から作られることは広く認められているが、どうやったら単なる物質が意識を持てるのか。とりわけ数ポンドの灰色の組織がどうやったら意識を経験できるのか」。これがハード・プロブレムだ。
 
つい最近まで、意識に関する見解には2つの流派があった。片方の立場に言わせれば、ハード・プロブレムは実際のところは非常に簡単な問題である、という。その答えはその意識は神経プロセスから「創発する」というものだ。この立場は「意識とは何なのか、どのようにして生じるのか」という問いを「創発とは何なのか、どのようにして生じるのか」という問いに置き換えることに成功している。けれどもそれ以上のものが得られるようには思えない。多くの人々は満足できないだろう。もう一方の見方によれば、ハード・プロブレムはあまりにハードなので、意識は実在していないんじゃないか、ということになる。意識は一種の幻覚だ、というわけだ。この立場の信奉者の多くは、彼ら自身実際は意識を持っていない、ということを自らに信じ込ませようとしたけれど、ほとんど成功していない。何世紀も昔、デカルトはその試みが自滅的である、と説得的に示した。
 
ハード・プロブレムに返答するもうひとつの方法を付け加えるべきかもしれない。「世界の全てが物質から成り立っているわけじゃない」と考えることができる。つまり根本的に違う種類のもの(ここでは「心質」mind-stuff と呼ぼう)が存在して、意識はそこに宿る、と。けれども、悪評高いことに、この立場はそれ自身のハード・プロブレムを抱えている。例えば、物質および「心質」がまったく異なる種類のものであるとしたら、それらの間の因果関係はどうやって生じるんだろう。腹が減ったから食べるだとか、食べないから腹が減るってのはどうやったら生じるんだ?そんなこんなの理由で、今では「心質」はほとんどすたれてしまった。これ以上かかずらうのはやめよう。
 
ようやく、ギャレン・ストローソンらによる 『意識 その自然における位置』 のための準備が出来たようだ。この本はストローソンによる冒頭の論文と18人の哲学者によるコメント、およびコメントに対するストローソン自身の膨大なコメントから成り立っている。当書の内容は非常に豊かだ。長年にわたって実証主義分析哲学が抑えつけてきた、かつては哲学の中心にあった広大な形而上的想像力をストローソンは持っている。それにコメントは、ほとんどみんな、洞察力があり、有益で、精巧で、卓越した議論が展開されている。この種のフォーマットの本でこのように完全な成功を収め、読むのが楽しい本は非常に稀だ。けれどもストローソンがハード・プロブレムを扱う方法は、現在のほとんどの哲学や心理学の立場と激しく対立していることに注意して欲しい。多くの読者はストローソンの思考があまりにも荒々しくて呑み込めないかもしれない。僕自身呑み込めたか自信がない。
 
ストローソンが堅守する三つの哲学原理がある。一つ目は、意識 (特に意識的経験の) の存在が明白であるということだ。僕たちに意識があるということは僕たちが最も良く知っていることははっきりしている。(確かに僕たちは自分に意識があることを証明できない。けれども、そのような証明が拠り所とすべきより安全な前提がないのだから、それはほとんど驚くに値しない。)ストローソンの第二の原理は一種の一元論で、存在するものはすべて、テーブル、椅子および動物の身体のようなよく知られているものと同じ類のモノ stuff である、というものだ。けれども、その類のモノについて「本質的なありのままの形では」全く知られていないとストローソンは考えているため、多くのオプションが用意されている。せいぜい、科学はそれに関連した性質を教えてくれるだけだ。ストローソンの一元論によって質流れにされるものは、しょっちゅうデカルトに帰せられる「実体二元論」だ(ストローソンはデカルトに帰するのは間違っていると考えている)。
 
ストローソンの三つ目の指導原理は最初の二つよりずいぶん偏向していて、創発は不可能だ、という趣旨のものだ。「X から創発すると明確に考えられる任意のものの任意の特徴 Y に関し、X に、そして X のみに Y が創発するための何かが存在し、それは Y にとって十分でなければならない」。しかし、ストローソンは物質には意識的経験が創発するようないかなるものも認められないと考える。あるいは仮に存在するとしても僕らにはそれが何であるのか全くわからない、と考える。とりわけ、無意識の小さなモノの欠片をよせ集めて、より大きなモノの欠片に意識が生まれるように並べる方法なんて全く想像できない。意識は液体 (ストローソンが好む本当の創発の例) の場合とは違うのだ。液体の場合、液体ではない分子が構成素となって、液体であるより大きなものを構成する様をある程度僕たちは観察できる。いったいどうしたら、物質から意識が創発する事をそういったやり方で説明できるのだろう、とストローソンは問う。もし本当に物質から意識が創発するなら、それは奇跡だ。けれどもストローソンはそれには賛成できない。
 
彼の議論をとても面白くしているのは、この3つの原理のどれからも 2.54 センチすらも動くことを拒否する態度だ*3。彼の形而上学的結論についてどう思うにせよ、彼の3つの仮定はどれもかなりの妥当性がある。だから、それらに同意する場合、何が帰結するのかを問うのはとても価値がある。ストローソンには、最後の最後まで道を進む覚悟がある。一個人として僕は、それこそが哲学のあるべき姿だと思う。ごまかしから形而上学は生まれないのだ。
 
それじゃあ、(一元論のように)すべてがテーブルや椅子みたいに同じ類のモノから成り立っているとしよう。そして少なくともその種のモノで作られたもののうちのいくつかは意識を持っているとしよう(僕たちは間違いなく意識を持っている)。それから、意識を持たないモノから意識を持つモノを組み立てる方法がないとしよう (つまり創発はない)。けれどもこれらを全て認めると、テーブルや椅子や動物の体(それから、その他の全て)を構成するモノ自体が意識を持たないといけない。天使と格闘して引き分けたストローソンは、汎心論者であることが明らかになった。基本的なもの(例えば陽子)が意識的体験の座なのだ。ありえると思うかい?とりあえず、僕は警告したぜ。
 
ストローソンは大事に拘って小事を見過ごしているわけじゃない。例えば、正しくも彼は、経験が経験の主体なしでは存在しないと考える。もし苦痛があるとすれば、それは誰かの、何かの苦痛であるに違いない。誰かが、何かが、苦痛の中にいるはずだ。それでは、汎心論者が究極的事物に帰属させるような経験を持つのは何なのだろう?純粋に物質的なものではないのは確実だ。それでは結局ハード・プロブレムが首をもたげてしまうのだから。それでは非物質的な何か?しかし一元論は崩せない。なぜならテーブルと椅子の構成素は物質から作られており、また他のすべてのものも同様だからだ。したがって、ストローソンは、基本的なものの経験の主体は経験自体であるに違いない、と結論を下すことになる。汎心論(結局それ自体、明らかな妥当性のある存在論ではないのが)に僕たちが払う付加料金の一部は、経験と経験者の常識的区別に見切りをつけなければならないということだ。基本レベルでは、頭痛は頭痛もちなのだ。
 
同様の思考が、ストローソンに物体とその特質を区別する伝統と汎心論との二択を迫ることになる。直観に反して、「フォーダーの頭痛」は、ある程度恒久的なもの(フォーダー)とある程度一時的なもの(彼の頭痛)との関係を述べるものじゃないのだ。けれども、そうだとすると、「あるものが実際とは異なる性質を持っているとしたら何が起こるだろう」といった反実仮想、たとえば「フォーダーの頭痛が消え去ったとしたらフォーダーは喜んだはずだ」といったものは無意味なものになってしまう。そして結局、やっかいな大仕事を終えた上で、ストローソンがハードプロブレムの答えに辿り着けたかどうかはよくわからない。僕の小さな欠片が意識的経験をしている、あるいは、意識的経験そのものだ、としよう。それがどうして僕に意識があることを説明できるんだろうか?君が意識を持っていて、僕が意識を持っているとすると、意識は合計で2つあることになる。それぞれの意識が構成素となって生まれる3つ目の意識は存在しない。これが僕と君に対して当てはまるなら、どうして僕と僕の小さな欠片には当てはまらないんだろう?小さな欠片が頭痛を持っていることで、どうしたら僕の頭痛を説明できるんだろう?
 
ストローソンがこういった反論の全てに注意を払っていることは強調しておくべきだろう。反対に、これらの反論はほとんどストローソンの文から引っぱって来たものなのだ。問題に向き合う上で、ストローソンは反論に応じて様々な戦略を考察している。例えば、常識的な形而上学は放棄しなければならなくなるだろう。特に、物質/性質の区別は捨て去らなければならないはずだ。ストローソンは、近年の物理学で進行しているものの中にそういった教訓の萌芽を見出している。恐らく彼は正しい。それから、恐らく、僕たちが共に歩まなければならなくなる謎がある。僕たち(もしくは僕たちの論理)が理解するようには出来ていない出来事だ。小さな経験から大きな経験が構成されるってのがそのひとつだろう。
 
ある意味では僕はそれらすべてに全く共感する。現状ではハード・プロブレムの解決策を想像することすら出来ないってのがまさに真実だと思う。解決策を想像するには、結局、僕たちの概念や理論の修正の必要があり、その修正は非常に重大で、不安をもたらすはずだ。それは全くもって明らかでないこと、僕たちはそれを解決できるぐらい知的であるってことを仮定することになる。ちょっと分析的に整頓すればハード・プロブレムは消えてなくなる、とかつて哲学者は考えていたし、今でも一部の哲学者はそう思っている。けれども、彼らがそのように考えたのは間違いだったのだ。ハード・プロブレムが僕らに興味を尽かす前に、僕たちが気にする必要のないようなものは何一つない。
 
ほかの全てが等しいなら、最も諦めなかったものが勝者だ。だから、ストローソンが必要以上の何かを放棄したかどうかが大事になる。彼が考えているのと同じくらい積荷を捨てなければならないかどうかは僕には定かじゃない。特に、上に引用した「Y が X から創発するとき、X には Y が創発するような理由をもつ何かがあるに違いない」という主張を否定してみることができるかもしれない。次のように言ったらどうだろう? 「この世界はそういった世界なんだから、ある事柄は真実だ。それ以上の解釈は何もない」。敗北主義者のように聴こえるかもしれない。けれども本当はそうじゃない。なぜなら、それは、ハード・プロブレムの助けになるかどうかに関わらず、遅かれ早かれ口にしなければならなくなるセリフだからだ。
 
典型的な科学的説明は自然法則に訴える。いくつかの自然法則は他の自然法則に訴えることにより説明されるが、いくつかの法則はそうではない。基礎的な法則があるのだ。大雑把に言うと、分子に関する法則は、流体に関する法則を説明する。原子に関する法則は、分子に関する法則を説明する。亜原子に関する法則は、原子に関する法則を説明する…以下続く。けれども永久には続かない。結局、僕たちは、(それがなんであれ)最も小さなものに関する法則(あるいは恐らく時空間の基本構造に関する法則)に帰着し、そこでストップだ。基本法則は説明できない、それこそが基本法則である所以だ。それが成り立つ理由はない。ただ成り立つだけなのだ。仮に基本的な物理法則が全てにおいて成り立つとしても、全てを説明するわけじゃない。特に、ありえたはずのあらゆる基本法則のなかで、なぜそれらが実際の基本法則であるのか、に関しては全く説明しない。僕はこれがものごとを眺める正しいやり方だと言っているのではなく、これは完全に尊重すべき伝統的なやり方なのである。少なくとも、あらゆる科学は物理学(あるいは何でもよいのだが)を底辺とした、ある種の階層を形作っているようだ。僕が議論しているような見方が少なくとも大まかな真実であると考えていいだろう。
 
けれども、たぶんこの考えにはどこかおかしいところがある。最終的には打ち捨てなければならなくなるだろう。ハード・プロブレムはすべての基本法則が物理学の法則だとは限らないことを示すはずだ。そして基本法則のいくつかは創発的な法則のはずだ。もしそうだとすると、仮に Y が X から創発するからといって、Yが創発してくるような性質の何かが X に存在しなければならない、ということは正しくなくなる。それどころか、あるケースでは、何から何が創発するかを説明できる方法がないかもしれない。意識は物質から創発するかもしれない。なぜなら物質は意識が創発するようなモノだから。おしまい。
 
だとすると、ハード・プロブレムが文字通りに扱いにくいことが判明したようだ。これはかなりショッキングだ。基本法則が最も小さなものに関する法則であるという考えは、「科学的思考」が始まって以来、その中心であり続けてきた。一方で、僕の知る限りその考えはア・プリオリな真実なんかでは全くない。全ての大きなものが小さなものから成り立っている世界を想像してみよう。小さなものに関する法則があるとする。それから大きなものに関する法則もある。けれども大きなものに関する法則のいくつかは小さいものに関する法則からは引き出されないとする。その世界においては「うってつけの方法でうってつけのニューロンを組み立てたら、意識の主体が出来上がる」というのは基本法則となる。そのやり方でニューロンを組み立てて意識の主体が出来上がった理由を説明することはできない。やってみる、それでおしまい。きっと、ストローソンは、そのような世界では、創発が奇跡になると言うはずだ。しかしそうだとすると、なぜすべての基本法則が定義からして奇跡でないんだろう?僕には誇りがある。僕らが阿呆すぎてハード・プロブレムを解き明かせないくらいなら、ハード・プロブレムがそもそも解決不能であることが明らかになるほうがマシだ。その種の解決不能な問題にそれなりの前例があるってのを願うばかりだ。
 
とにかく、ハード・プロブレムが実際滅茶苦茶ハードである、と主張する点でストローソンは正しいし、無償でそれを解決することはできない、という彼の直観は僕と同じだ。僕たちが大事にしているものの見方は解決の途上で破壊されるだろう。大切な問いはどれがどの程度破壊されるかだ。とにかく、ハード・プロブレムがどれくらいハードか、そしてその困難に尻込みせずに直面すると物事がどれだけ奇妙に思われるかを知りたいなら、この本を読むべきだぜ。

 
お断り:フォーダー大先生を山形浩生口調で喋らせてみました。

*1:創発(そうはつ、emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。Wikipediaより

*2:フォーダーがあげている「フォーダーがもし頭痛をもっていなかったら喜んでいたはずだ」という反実仮想の場合、それほど無意味なものとはならないだろう。なぜなら頭痛を持っている存在と頭痛の治まった存在とを別の名前で指示することを我々は行わないからだ。我々の認識能力はその程度のいい加減さを許す。我々の認識の解像度以下の反実仮想ならば、日常生活において十分有意味となると言って良さそうだ。

*3:訳注:原文では1インチ。1センチ位だったら動いてくれるかもしれないね。