これが自然種だ!

講談社現代新書のように高らかに名指し得るものがあるのか、僕には皆目わからない。*1
前回のネッド・ブロック Ned Block の翻訳に自然種 natural kind という語が出てくる。これまでも何度も様々な本で目にした語であるが、いまいち、自然種とは何か、が覚束ぬ。僕の所属する脳科学の研究室には、哲学辞典など、ない。そこで、安易にグーグル先生に尋ねてみた次第であるが、パンの酵母が云々、といったページばかりである。ブロック先生は「中国人ひとりひとりにニューロンの真似をさせたらそこに意識が生まれるか、仮に意識が生まれるとするならチベットウイグルなどの問題はどうクオリアとして立ち現れるのか」といった奇抜な発想で知られる方であるが(後ろ半分は真っ赤とはとても言い難い嘘である)、流石に脳内の酵母菌と意識との関係を論じるはずがないのである。
こちらの「知識は自然種か?」 (pdf) は大変勉強になったが、これは応用編のようなもので、とりあえずの基本的知識を仕入れる、序に、皆様にも、たとえ劣化したものであっても、とりあえずの叩き台として情報を提供出来れば、との思いで英語版 Wikipedia の Natural kind の項を翻訳した次第である。何せ哲学の門外漢のため、ところどころ怪しい。誤りなどは指摘していただければ幸いです。
 

哲学における自然種とは、人工的な分類ではなく、自然な分類としての事物の分類のことである。あるいは、人や集団によって恣意的にひとかたまりにされたもののグループとしてではなく、実在する集合として、他の事物と分かたれる事物の集合(物体、事象、存在)が共通に持つ何かのことである。
もし仮に何らかの自然種が存在するとするならば、自然種の良い候補には、金やカリウムのような各種の化学元素が含まれるだろう。クォークのような物理的な粒子も自然な種類かもしれない。なぜかといえば、仮にそれらを同じグループのメンバーだと認める人々がまわりにいなくても、グループでありえ、他の事物からグループとして区別しうるからだ。一方、50 ポンド以上である物体の集合は、ほぼ確実に、自然な種類を構成しないだろう。ある人は輸送費の計算など何らかの目的のためにそれらの物体をひとまとめにしたのだろう。しかし、他の人が、別の何らかの分類法を採用せずに、同様にそれらの物体をひとかたまりにすべきであるという特別の理由はない。
そもそも自然種があるのか、あるとすればどんなものなのかに関する膨大な哲学的な議論がある。生物学の哲学では、「鷲」のような生物学における種が自然種かどうかに関して議論がある。人種、性別あるいは性的嗜好が自然種かどうかに関しても議論がある。気象学者は、雲を何種類にも分類するが、それらが本当に異なる種類なのか、あるいは、それらのグループは単に人間の分類する利益や関心を反映しているだけなのか、に関しては明らかでない。
より形式的な定義によれば、自然種とは実体のファミリーで、「自然法則によって拘束された特性を持つ。私たちは、鉱物、植物、動物といったカテゴリー形式をとった自然種を知っている。また、異なる文化においても完全に類似した方法で周囲の自然な実在を分類することを知っている。」(Molino 2000*2, p.168) この用語は W.V.クワイン Quine の論文「自然種」 Natural Kinds*3 によって現代哲学に導入された。彼によれば、物体の集合が「投射可能」である場合にのみ(そして恐らく、その場合、十分に)種が形成されるという。投射可能とは、その集合の何らかのメンバーに対する判断が、科学的な帰納によって、他のメンバーに対しても妥当に拡張されうることを言う。従って、「カラス」や「黒」は自然種類辞 Natural kind term である。なぜならいかなる黒いカラスも「全てのカラスが黒い」という命題の何らかの証拠を、最低限、構成するからである。けれども、「黒くない」や「カラスでない」などは自然種類辞ではない。なぜなら、黒くなくカラスでないもの(例えば薫製のニシン red herring *4 )は、あらゆる黒くないものがカラスでないことの証拠とはならないからだ。
ネルソン・グッドマン Nelson Goodman の問題の述語「グルー」(2000年1月1日以前に観察されたものに対してには青、2000年1月1日以降に観察されたものに対しては緑、を意味する) は科学には不適切であることが分かる。なぜなら「グルー」は自然種を意味しないからだ。クワインは、「種」性 kind-hood *5は論理的には原始的なものであると主張した。つまり他のいかなる個物間の関係にも還元することができないということだ。
文化的人工物は一般に自然種とは考えられない。ある著者はこのように指摘する。「それらは変化し続けるし、それらを指示する用語はヴィトゲンシュタインの言う『家族的に類似する述語』を構成するのみであるからだ」 (上掲書、p.169) 。この点に関してはさらに議論が行われている。例えば、ジョン・マクダウェル John McDowell は、「文化」と「自然」の間の対立は明確に形式化することは出来ず、従って、いかなる場合も文化的製品を不自然なものとしてではなく、(アリストテレスの用語を借りれば)一種の「第2の自然」として解釈すべきだと、論じている。

*1:「これが〜だ」というタイプの書名は永井均が『これがニーチェだ (講談社現代新書)』で使用したのが淵源である。というようなことを永井先生がこの本のあとがきで言っていたような記憶があるけれども。

*2:Molino, Jean (2000). "Toward an Evolutionary Theory of Music and Language", The Origins of Music. Cambridge, Mass: A Bradford Book, The MIT Press. ISBN 0-262-23206-5.

*3:Quine, Willard Van Orman. 1969. Natural Kinds. in Ontological Relativity and Other Essays (John Dewey Essays in Philosophy) : Columbia Univ. Press.

*4:訳注:人の気をそらすもの、根本の問題から注意をそらすためのもの、人を欺く惑わすもの、デマ情報といった意味がある。【語源】猟犬を訓練するときに、獲物が通り過ぎたにおいの残っている道と交差するように、においのきつい薫製ニシンを引きずっておいた。そうすることによって、猟犬が正しいにおいと間違ったにおいとをかぎわけられるように訓練した。そこから、draw a red herring across someone's path という表現が使われるようになった。つまり、「人が進むべき道に、薫製ニシンを引きずっておく」ことにより、「人の注意を他にそらす」のである(スペースアルク red herring の項より)。

*5:当初は「「種」らしさ」と訳しておりましたが,id:at_akada さんのご指摘により訂正いたしました (20110825)