自らの伝言

地表面の七割は水
人体の七割も水
われわれの最も深い感情も思想も
水が感じ 水が考へてゐるにちがひない

雑誌に投稿していた論文にコメントが付いて戻ってきた。2 人の査読者のうち 1 人はべた褒め、と見せかけ結構突っ込み、1 人はばっさり。粘って質を向上させればパスする可能性はまだある。
しかし、ここで挫けてしまえば、僕の見出したものが科学的事実としてこの世界に記録されることはない*1。僕自身は僕の発見した事実が紛れも無い真実である、という確信を持っているわけだが、それが科学的事実として世界に認められるまでには、イントロダクションの体裁を整え、分かりやすい表を作り、等々の比較的瑣末な作業を積み重ねていく必要があるのだ (もちろん行き過ぎた解釈や統計の使い方といった重要なポイントもいくつも修正する必要はあるのだけれど)。
考えてみれば不思議なものだ。少なくとも事実であるかどうかとは論理的には独立であるファクターが、科学的事実性を確立するために無視できないほど大きな力を持っている。事実は単に事実であるだけでは、科学的事実として認められないのである。
もちろん、こんなことは科学史や科学哲学、科学社会学などを少しでもかじっていれば当然分かっていることであるし、最も成功を収めている知の方法論としての科学が、事実性の確立のために要求するものが、決して理不尽なものではないことも分かっている。科学的事実は社会的に構築されるものだ、ということを鬼の首を取ったように叫びたいのでも別に無い。ただ科学的な方法論が、いざ自分自身が確かに手にした (と信じている) 事実・知識に向けられたときの戸惑いのようなものを書きたいのである。果たして僕の論文が世に認められないとき、僕の手にある事実のステータスは一体どのようなものになるのだろうか、ということである。僕自身、疑似科学的なものを「あれは科学的事実ではない」と切り捨てることがあるわけだけれど、科学的事実でないもの全てが虚偽・迷妄であるわけでは、当然、なく、科学的事実と唯の虚偽・迷妄との間には、科学的事実として承認されない、裸の、剥き出しの事実、というステージが広大に存在しているはずなのである。
そういった科学的承認を得られなかった事実たちに思いを馳せる。それは、発見者以外の誰も知ることがなく、もはや誰も訪れることもない荒涼とした平原のようである。その平原は永遠に地図に載ることがないけれども、それでも、確かに、どこかに、存在しているのである。僕は今ひょっとした拍子にその平原に足を踏み入れてしまい、地図に頼ることも出来ず、誰かに行き先を尋ねることも出来ない、心細いような心持ちなのである。

*1:別の雑誌に投稿し直す事は出来ます。