精神医療と適応について考える。

killhiguchiのお友達を作ろうより

(略)
 今、私は、「治る」ことを、日常生活が送れて働けるようになるというように定義している。決して病根が私の目の前に曝され、それと対決し、完治させる、というようにはしていない。

http://d.hatena.ne.jp/dadako/20080814

つねづね「治る」とはどういうことかと考えているのだけれども。精神医療的に「治る」は社会に適応できて抑うつ等の症状を発していない状態をいうのかな。「医療」という面から見れば目標地点をどっかに置かなければいけないのはわかるけれども、「治る」にもいろいろある(たとえば「寛解」と「完治」と「治癒」は違う)ということを指摘しておかないと誤解が生じる気がする。

dadakoさんは、発達障害も含めた精神医療全般について書いておられるが、私のような鬱病の患者に限っても、「治る」レベルにはいろいろある。

 例え、今、私が今の環境に適応的であったとしても、次の環境に適応的でなかったとすれば、それは「治った」ことにはなるまい。今の私は、今の環境でさえも長期的には適応できていない。無論、私の想いとしては、病との対決を望み「普通」になるところまでもっていきたいのだが、それには精神分析などの長期の「治療」が必要になるだろう。そんなには人生は待ってはくれない。今の状況では、騙し騙し、少しずつ、長期的に、特定の環境に慣れていく、ということを、環境ごとに繰り返すしかないのだろう。

 障害者職業センターへ通うのは、もっと体調が安定してから、離島の旅から帰って1ヶ月はしてからにしようと思う。

これに対して、僕はブックマークコメントで「"今の状況では、騙し騙し、少しずつ、長期的に、特定の環境に慣れていく、ということを、環境ごとに繰り返すしかないのだろう。" 程度の差はあるにせよ、これは健康なものにも共通するプロセスではないだろうか。」
と書いたのだけれど、少し誤解を生みそうだったので、私信で

(略)
先ほどのブックマークコメント、決して killhiguchi さんの苦しみを相対化するつもりのものではありません。うまく表現できていないかもしれませんが、何らかの特定の環境を抜きにしては「適応」が定義不可能な以上、どの環境にも完全に「適応」できる精神というものは存在しえないのではないかと思うのです。つまり無限の可能性を持つ環境への適応を想定しての「治療」というのは、はなからハードルを無限に高めているようなものなのではないか、ということです。そうである以上、「普通」、「健常」の定義というのも考え直す必要があるのではないでしょうか。結局、「健常」なる者がいたとして、やっていることは「騙し、騙し」であるはずです。むしろ「騙し、騙し」が可能かどうかがことの本質であるかのようにも思います。かと言って、僕に良い「治療」のアイディアがあるわけではありません。
僕は脳科学に携わっている以上、一定の実在論に与しているのでしょうが、しかしそれとて環境と身体と脳/心のループのレベルでの実在論です。脳 /心だけを社会に無理矢理フィットさせるような流れには反感を覚えます。けれども、いざ個人が苦しみを除こうとしたときに、アプローチできるのは結局脳 /心なんですよね。何とも中途半端で稚拙なコメントで申し訳ありません。
(略)

と書いたのだった。いかんせん僕自身も臨床の知識が不足しているので、全くはっきりしたことは言えないのだけれど、何かひとつの理想的状態 (そんなものは存在しないのだ!) への到達を目指すのではなく、むしろ可変性・多様性を増大させるような方向性の「治療」というものがあっても良いのではないかと思う。そのことで心理的ニッチが獲得される可能性が増大するはずだ。つまり「適応」は事後的に発見される。このような進化学の応用は可能ではないだろうか?もうそのような「治療」が考案されているのかもしれないけれど、ここ数年臨床は不勉強で。とはいえ、個人が多様性を手に入れたところで、社会の硬直性が放置されるのだとしたら、何だか割りを食うみたいで馬鹿馬鹿しいかな。
 
大元の id: dadako さんのエントリもご覧下さい。
発達障害の子どもたち  杉山 登志郎 (著)  講談社現代新書 1922 -明日刈られる麦