ジョン・ミハイル『道徳認知の諸要素:ロールズの言語アナロジーと道徳・法的判断の認知科学』


おひさしぶりです.今年も,いや,この 5 年も,いろいろありましたが,結局のところ,図々しくも,僕は元気です.いや,あまり元気がないかもしれません.君はどうですか?
このところ,道徳について考えていました.いや不道徳について考えていたといったほうがいいかもしれません.
以下は,人間の道徳認知の基盤は,普遍的な「道徳文法」 Universal Moral Grammar によって特徴づけられると主張したジョン・ミハイル John Mikhail の著著 Elements of Moral Cognition: Rawls' Linguistic Analogy and the Cognitive Science of Moral and Legal Judgment (2011) の第一章の翻訳です.彼は,ノーム・チョムスキーに始まる生成言語学の手法を道徳認知の領域にも適用することで,興味深い探究が可能になると論じています.第一章は,言語学的な手法で人間の道徳の何を明らかにしようとしているのかを簡潔に概観しております.この後の章では,より具体的な理論の内容や,行為の知覚から道徳判断に至るまでの計算に関する非常に詳細な分析が展開されているので,興味のある方は,読んでみてください.

それでは,また.

正義の規則は文法の規則になぞらえることができるだろう.そして,その他の徳の規則は,批評家たちが表現の中に崇高で優美な部分を加えるために確立した規則になぞらえることができるだろう.前者は厳密で,正確で,必要不可欠なものである.後者は,あいまいで,漠然として,確定不可能なものであり,それを獲得するために確かで誤りのない方向性を与えてくれるというよりは,我々が目指すべき完成についての一般的な考えを与えてくれるものなのである.
アダム・スミス道徳感情論』

農夫であれ,子供であれ,分別と一貫性を持って,論理的に考え,判断し,言語を話すことができる.そうした行為が原理に則っていること,一般的な規則に従っていること,そしてそれらがたいへん馴染み深く,また,個別の事例においてもよく維持されていることを発見したとき,論理学者や道徳家,文法学者は戸惑うのである.
―アダム・ファーガソン市民社会史試論』



道徳認知の理論は普遍文法の側面に基づいてうまくモデル化できるだろうか?ノーム・チョムスキー Noam Chomsky は,たびたび,そのとおりかもしれないと示唆してきた(例えば,1978, 1986a, 1988a, 1993a).ジョン・ロールズ John Rawls は,『正義論』 A Theory of Justice において同様の提案を行い,言語学者による言語能力の説明と,彼自身が詳細に特徴づけた正義の感覚とを比較した (1971: 46-53).他にも多くの哲学者,とりわけスティーヴン・スティッチ Stephen Stich (1993),アルヴィン・ゴールドマン Alvin Goldman (1993),スーザン・ドワイヤー Susan Dweyer (1999),マティアス・マールマン Matthias Mahlmann (1999),そしてギルバート・ハーマン Gilbert Harman (2000) らが,同様のアイディアについて公に思いを巡らせてきた.それにもかかわらず,そして,視覚や音楽認知といった認知科学の他の分野で,チョムスキーによる能力と運用の区別やその他の基本的な理論的枠組みが成功裏に利用されてきたという事実*1にもかかわらず,普遍文法の中心的特徴に基づいて道徳認知をモデル化する研究プログラムとはどのようなものなのか,あるいは,道徳性に関する伝統的な哲学の問いがこうした観点からどのように実りある形で扱えるのか,といった問いには持続した注意が払われてこなかった.本研究はこのギャップを埋めようとするものだ.
こうしたトピックについて新たな観点から取り組み始めるのにふさわしい地点は,ロールズの影響力のある本『正義論』だ.1950年代と1960年代に,チョムスキーは,通常の人間はだれもが言語獲得のための遺伝的プログラムを備えていると主張し,言語と心の研究を変革した.チョムスキーは,形式的な教育が行われる前段階であっても,子供が母語を獲得してしまえば,言語表現の特性や関係について,広範な直観的判断が可能になるという事実に注意を向けさせる.こうした判断には,ランダムな音の連なりが文法的な文となるかどうかや,与えられた表現が曖昧かどうかや,二つの適当な表現のお互いが,韻を踏んでいるか,言い換えに当たるかどうか,含意を持つか,矛盾するかといった判断が含まれる.チョムスキーは、こうした言語行動は,言語の文法の暗黙的な知識を子供が持っているいという前提なくしては説明出来ないと主張した.彼は理論言語学を,仮定されるこうした知識の基盤となる原理―あるいは彼が言語能力と名付けたもの―を経験的に探求するように方向づけた.そして,彼はプラトンデカルトライプニッツ,そしてカントに連なる合理主義的伝統の一側面を復活させる手助けをしたのだ.
ロールズは,チョムスキーのプロジェクトが道徳哲学に与える潜在的な影響を認識した最初の哲学者の一人だった.『正義論』の第九節で,彼は倫理学の記述的側面と理論言語学との間のいくつかの構造的類似性を指摘し,言語学が言語能力の側面を研究するように,倫理学は我々の道徳能力―あるいは,ロールズが「正義の感覚」(1971: 46) と呼んだもの―の調査に向けられるべきであることを示唆した*2ロールズは,G. E. ムーア Moore (1903)、A.J. エイヤー Ayer (1946/1936),そしてチャールズ・L・スティーブンソン Charles L. Stevenson (1944) といった20世紀初頭の分析哲学者が行ったような,意味論的な狭い関心からは遠ざかる姿勢を見せた*3.そして,啓蒙時代のほとんどすべての主要な哲学者や法学者が想定していた,倫理学のより古い構想に戻ることを試みた.すなわち,人間の精神およびその道徳器官と道徳感情の経験的研究を探求の最前線に置いたのだ*4
正義論は非常に大きな影響を及ぼすようになったものの,ロールズの言語アナロジーが暖かく受け容れられることはなかった.R. M. ヘア Hare (1973),トーマス・ネーゲル Thomas Nagel (1973),ロナルド・ドウォーキン Ronald Dworkin (1973),そしてピーター・シンガー Peter Singer (1974) らによる書評は, 道徳理論が言語学と比較できる,あるいは,すべきであるという考えを鋭く批判した.さらに最近では,とりわけ,ノーマン・ダニエルズ Norman Daniels (1979, 1980),リチャード・ブラント Richard Brandt (1979, 1990),ジョセフ・ラズ Joseph Raz (1982),そしてバーナード・ウィリアムズ Bernard Williams (1985) といった面々が,同様に,ロールズのアイディアに反対してきた.
ロールズは『正義論』で最初に言語アナロジーを提案した後は,刊行物においてそれを擁護することはなかった.これは,彼の多様な関心と,時とともに彼にとって重要なものになってきた実践的な懸案事項により近い,非常に多くの批判に応答する必要性があったこととを考えれば,ある程度は理解可能なものだ.また,批判者らの言語アナロジーへの異議のすくなくとも一部に対しては,ロールズが暗黙に同意していたことも反映されているのかもしれない*5.けれども,非常に驚くべきことは,アナロジー自体をめぐる議論がとても一方的であったということだ.ロールズのアイディアについての持続的な擁護にせよ批判的な検証にせよ,近年まで,ただのひとつも哲学の文献全体の中に存在しなかったのだ*6.一見すると,これは奇妙に思われる.言語学におけるチョムスキーの革命は,大規模な追従者を生み出し,認知心理学と人間の心の研究における根本的に新しい有望なアプローチを構成するものとして多くの哲学者や科学者によって捉えられてきた(例えば、George 1989; Harman 1974; Kasher 1991; Otero 1994).同様に,ロールズの仕事は,最近の道徳哲学,政治哲学,および法哲学の文脈において革命的だったし,それはまた膨大な二次文献を生み出してきた(例えば,Wellbank, Snook, & Mason 1982; 一般的には Freeman 2003; Pogge 2007; Richardson & Weithman 1999 を参照).ロールズが道徳理論を「一種の心理学」として見ている(あるいは,すくなくともかつて見ていた)という事実 (Rawls 1975: 7, 9, 22) や,道徳理論と生成言語学を繰り返し比較する,『正義論』におけるもっとも明示的な方法論的発言 (1971: 46-53) を考慮すると,この比較についての詳細な研究が存在しないことは,かなり印象的だ*7
もちろん,この主題についてほとんど書かれてこなかった理由は,ほとんど興味深いことが言えないためだということ,つまりいいかえれば,アナロジーが明白に不適当であるためだ,ということはあり得る.これはぼくが参照してきた批判者の一般的な態度のようだ(Freeman 2007: 34-35 参照).ぼくはこれには反対だ. 確かにアナロジーが有効に機能することができる範囲には限界があるとぼくは考えている.けれども,その一方で,道徳能力を言語能力に置き換えてみることは,道徳理論の目的とアプローチとを概観するうえで,非常に啓発的な視点を与えてくれると信じている.
したがって,以下で,ぼくは,道徳理論が普遍文法のある側面に基づいて有効にモデル化できるとするロールズの主張を擁護する.私の説明は3つの主要な部分に分類される.第一部の残りの部分では,人間の道徳に関する研究と比較する上で有用な言語理論の重要な特徴をいくつか明らかにし,また,道徳認知の理論のための新しい分析の枠組みを策定するためにそうした特徴を用い,言語アナロジーを導入する.また,ロールズが正義論の中で道徳理論の本性について実際に述べたことを検証し,ぼくたちの目的において,彼の言明の重要な特徴がなんであるのかについて注意を促す.第二部では,ロールズの言語アナロジーの経験的な意義を明確にする.そうして,常識的な道徳的直観の範囲に関する記述的妥当性の問題への暫定的な解決策を定式化して示すことによって,道徳的認知の理論にしっかりとした足場をつくる.こうした問題には,フィリッパ・フット Philippa Foot (1967) とジュディス・ジャーヴィス・トムソン Judith Jarvis Thomson (1986) の仕事から始まったトロッコ問題に関する文献で議論されたものも含まれる.最後に,第三部では,ロールズの言語アナロジーやそれが前提とする道徳理論の構想に対して投げかけられた影響力の大きい初期の批判―特に,ヘア,シンガー,ネーゲル,そしてドウォーキンのもの―を考察する.これらの批判はロールズが『正義論』で描いた研究プログラムに対して無力であることをぼくは主張する.そして,その研究プログラムをぼくはさらに発展させたいと思う.
こうした作業を始める前に,以下の言明について,準備としていくつかの明確化を行うのが有意義だろう.最初の問題は,哲学の歴史の中で言語アナロジーが占める位置だ.ロールズは,文法規則と正義の規則とを比較してきた唯一の著述家では決してない.それどころか,他の多くの作家が,同一または類似した比較を行ってきた.また,スミスとファーガソンの引用から明らかなように,言語アナロジーは,実際,伝統的なものだ.事実として,一見すれば,常識的な道徳や法的知識の起源や発達を説明しようとした真剣な論者のほとんどは,インスピレーションとしてそれらを言語と比較してきたことがわかる*8
表1.1(略)は,近現代において,まさにロールズのように,何らかの形で,文法のルールあるいは言語理論を,道徳理論あるいは正義のルールと比較した著者の一部まとめたものだ.表1.1 から明らかなように,言語アナロジーは,哲学者だけでなく,多くの人類学者,生物学者,経済学者,言語学者,心理学者,社会学者,政治学者,法律家を含む科学者や学者の想像力を掻きたててきた*9.こうしてみると,ロールズの言語アナロジーは他のひとびとが行ってきた様々な比較とどのように異なり,何が特別だったのかと不思議に思うかもしれない.ぼくの答えは,いくつかの部分からなる.まず,ロールズは,このグループの中でも,道徳哲学の歴史と生成言語学の理論的基礎の両方についておそらく最も精通しているものとして際立っている*10.第二に,ロールズは, 普遍文法の現代的な復活が倫理学に与える潜在的な影響を理解している最初の哲学者だったように思われる.すでに1960年代に,能力と運用の区別や,チョムスキーフレームワークの他の側面からインスピレーションを得た他の哲学者として,ロバート・ノージック Robert Nozick (1968: 47-48) などを挙げることができる.しかし,そうした基礎のもとに道徳理論の構想全体を最初に組織化し明確化したのは,ロールズだ.第三に,『正義論』は,間違いなく,二十世紀の道徳哲学,政治哲学における最も重要な本だ.リチャード・ローティ Richard Rorty (1982: 216) は,ますます断片化されていく分野における少数の「真正の分野間パラダイム」の一つとして,『正義論』を描写している.ぼくはローティがただしいと思う.
ロールズの言語アナロジーが特別な注意を払うに値する第四の理由は,『正義論』の議論を解釈するための最善の方法に関係する.ロールズのテクストがさまざまな読みを許すもので,様々な方法論やメタ倫理的な観点と整合的なものであるように見えるということは,すでにおなじみの観察だ(例えば,Brink 1989).けれども,ロールズが道徳哲学の主題をどのように理解しているかを明確にし,どのように原理を追求すべきであるかと考えているかを明示的にするために本の1つのセクション,つまり第9節,を充てているという事実にはあまり注意が与えられてこなかった.第九節でロールズが述べた目的は,「反照的均衡における熟慮された判断という概念と,それを導入する理由をより詳細に説明することで」,「道徳理論の本性」についての「誤解を避けるためである」(1971: 46).しかし,ロールズの努力にもかかわらず,この言及の中の三つの鍵となる概念―熟慮された判断,反照的均衡,そして道徳理論そのもの―を巡る不確かさは広くいきわたったものだった.
ぼくの考えでは,第9節のロールズの言明は,道徳理論の性質についてこれまでに書かれたなかで最も力強い短い声明の一つだ.その理由の一部は,ロールズの行った道徳理論と生成文法との比較によっている.それにもかかわらず,反照的均衡や熟慮された判断といった話題を中心にして築きあげられた二次文献を注意深くレビューすれば,多くのこうした論評はロールズの哲学におけるこうした概念や生成言語学における対応する概念の発展について誤解していることが示唆されるだろうと僕は信じている.これらの問題を明確にすることで,『正義論』においてロールズが想定していた道徳理論の構想をより良く理解することに貢献したいとぼくは望んでいる.
こうした言明は,もう一つの重要な留保につながる.この本において「ロールズの道徳理論の構想」という語が指示するものは,1950-1975 年におけるロールズの道徳理論の構想のみを指示することを強調することは重要だ.ここでのぼくの探求は「初期の」ロールズが道徳理論の主題についてどのような構想を持っていたか―そして,特に,その構想のなかでの言語アナロジーの地位―に限定される.こうした問題の証拠は,キャリアの前半においてこうしたトピックについて彼が行った4つの主要な主張を見ればよい.


 (i). ロールズの博士論文「倫理的知識の根拠に関する研究」 (1950)(以下「根拠」)
 (ii). 最初に出版されたロールズの論文「倫理学のための決定手続きの概要」 (1951a)(以下「概要」)
 (iii). 「道徳論のいくつかの注意事項」と題する『正義論』 (1971) の第9節(以下「第9節」)
 (iv). アメリカ哲学協会におけるロールズの1974年会長就任言明「道徳理論の独立性」 (1975)(以下「独立性」).


ぼくはこの本において,道徳理論の自然主義的な構想をロールズに帰するのだけれど,彼がそうした構想をキャリアの終盤にも依然として抱いていたものであるかどうかははっきりしない*11.いずれにせよ,ロールズの道徳理論の構想は時代とともに変化していったのか,そうだとすればそれはなぜなのか,といったことは,先行する問いがより良く理解されてから議論するのが有益だろうとぼくは信じている.先行する問いとは,つまり,言語アナロジーとそれが意味する道徳理論の構想が,それに向けられた異議に対して脆弱なのかどうかである.
この研究の一つの目的は『正義論』のより良い理解に貢献することであると,ぼくはすでに述べた.これが正しいとしても,この後の議論はロールズロールズの言語アナロジー自体に関するものというよりは,言語アナロジーそのものに関するものであるということを明確にしておくことは重要だろう.あるいは,より正確にいえば,ロールズが初期のテクストで記述した道徳理論の構想についてのものである.ぼくの最優先目標は,『正義論』についての特定の解釈を主張することではなく,ロールズが第九節で描いた実質的な研究プログラムを発展させることだ.それは,ぼくが普遍道徳文法として特徴づけるものであり,よりシンプルには,道徳感覚の科学的探求と呼べるものだ.道徳哲学の将来は認知科学脳科学の中にぴったりと位置づけられるとするスティッチ (1993: 228) にぼくは同意する.けれども,道徳的認知の理論は,現在,無視され,未発達で,中傷されている*12.現在のこの不幸な状況には様々な理由がある.その理由のいくつかは歴史的あるいは社会学的なもので,行動主義,論理実証主義,そして精神分析の台頭と関係がある.そして,それぞれの分野の境界を策定するための専門的哲学者と心理学者との闘争も関係がある.その他の理由は,より概念的なものだ.
いずれにしても,ぼくにとっては明らかなことであり,ここで論じたいことは,言語アナロジーに対するこうした多くの初期の批判が現在の状況に大きく影響をもたらしているということだ.事実として,ロールズの初期の書物は,ジャン・ピアジェ Jean Piaget (1932/1965)やローレンス・コールバーグ Laurence Kohlberg (1981, 1984) のような心理学者の仕事と比べても,深さや一貫性,分析的な厳格さの面で遥かに凌駕するものであり,科学的な道徳認知の科学理論の芽をはらんでいた.けれども,残念なことに,言語アナロジーに対する当初のもっともらしい批判によって,言語アナロジーは,この数十年,事実上の休眠状態だった.
ぼくがこの本の中で実現したいと願っていることの一部は,ロールズの理論を復活し更新させることで,また,哲学者,認知科学者,法学者のコミュニティに,今後の研究へと目を向ける中で,それを再導入することだ.この意味で,この後の発言は,生成言語学の側面から道徳認知をモデル化する研究プログラムを定式化し,擁護する試みであると同時に,ロールズについての既存の概説に新たなものを加える試みでもある.
ロールズの言語アナロジーによって提起される科学的な問いは,古典的なものだ.すなわち,何が道徳的な知識を構成しているのか? それは生得的なものだろうか?脳には道徳判断に特化したモジュールが含まれているのか?人間の遺伝的プログラムには,正義の感覚あるいは道徳的な感覚を獲得するための指示が含まれているのだろうか?こうした問いは様々な形式で何世紀にもわたって問われてきたものだ.この本では,ぼくは,それらを明確にし,それらをどのように探求すべきかを『正義論』におけるロールズの提案を発展することを目的に,こうした問いをあらためて取り上げる.

*1:視覚認知については,例えば,Gregory (1970), Marr (1982), および Richards (1988) を参照.音楽の認知については,例えば,Bernstein (1976), Lerdahl & Jackendoff (1983), および Jackendoff (1992: 165-183) を参照.論理的な認知についての経験的探求にチョムスキーの枠組みの一部を適用する近年の試みについては,Macnamara (1986).認知科学チョムスキーの枠組みを適用する可能性について有意義な議論を重ねてくれ,また,視覚能力に関する Richards の論文にぼくを導いてくれた Joshua Tenenbaum に感謝する.

*2:ロールズは,初期の論文「倫理学における決定手順の概要」(1951a) において,「道徳的に能力のある」morally competent や「能力にもとづいた判断」competent judge といった関連するフレーズを用いているが,道徳能力という語は『正義論』第9節における議論では姿を見せない.その代わりに,「道徳的な能力」moral capacity,「道徳の構想」moral conception,「正義の感覚」sense of justice といった異なる概念によって,探求の主要な対象を同定している.たとえば,ロールズは,道徳哲学の主要な課題を,道徳能力 moral competence を記述することと考える代わりに,「道徳哲学を…道徳能力 moral capacity を記述する試みとしてまずは考えることができる.あるいは,この場合,正義論を正義の感覚を記述するものとして考えることができる」(1976: 46) と述べる. 道徳能力の正確な記述が長年の哲学的疑問の解決に役立つ可能性があることを示唆する代わりに,ロールズは次のように書いている.「ぼくたちが自身の道徳の構想について性格な説明を与えることができれば,そのとき,意味や正当化の問題ははるかに答えるのが簡単であることが示されるかもしれない」(1971: 51).最後に道徳能力をすべての正常な人間に帰する代わりに,ロールズは「ある年齢を超え,必要な知的能力を保持しているものは誰でも,通常の社会環境の下では,正義の感覚を発達させる」(1971: 46, 50) と述べる.ぼくと話した際には,ロールズは,チョムスキーの言語能力の概念と類似した意味での道徳能力 moral competence こそが,正義論において道徳哲学者が暫定的に探求する対象となるとロールズが考えた,道徳能力 moral capacity,正義の感覚,そして道徳の構想に関する正しい記述であると承認した.

*3:こうした発展についての初期の見通しについては,Rawls (1951b) を参照.

*4:道徳哲学,道徳心理学,そして法学は,19世紀の少なくとも後半までは,明らかに異なる分野ではなかったし,ある一つの主題を調べたほとんどの著者は,同様に他の種代についても幅広く扱った.特に,道徳哲学,自然法,及び国家の法律を扱った啓蒙時代の主要な論文の多くには,道徳心理学の重要な議論が含まれている.この本が依拠するそうした研究の部分的なリストを,初刊の(あるいは,いくつかの場合,オリジナルの集成時の)時系列順に並べたものは以下のとおりである.Hugo Grotius, On the Law of War and Peace (1625), Thomas Hobbes, Leviathan (1651), Samuel Pufendorf, Elements of Universal Jurisprudence (1660), John Locke, Essays on the Law of Nature (1660), Samuel Pufendorf, On the Law of Nature and Nations (1672), John Locke, An Essay Concerning Human Understanding (1689), G. W. Leibniz, New Essays on Human Understanding (1705), Joseph Butler, Fifteen Sermons on Human Nature (1726), Francis Hutcheson, Illustrations on the Moral Sense (1728), David Hume, A Treatise of Human Nature (1739-1740), Christian Wolff, The Law of Nations Treated According to Scientific Method (1740-1749), Francis Hutcheson, A Short Introduction to Moral Philosophy (1747), Jean-Jacques Burlamaqui, The Principles of Natural and Politic Law (1748), David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals (1751), Jean-Jacques Rousseau, Discourse on the Origin of Inequality (1754), Emile Vattel, The Law of Nations; or Principles of the Law of Nature Applied to the Conduct and Affairs of Nations and Sovereigns (1758), Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments (1759), Jean-Jacques Rousseau, On the Social Contract (1762), Immanuel Kant, Groundwork of the Metaphysics of Morals (1785), Thomas Reid, Essays on the Intellectual Powers of Man (1785), Immanuel Kant, Critique of Practical Reason (1788), Thomas Reid, Essays on the Active Powers of the Human Mind (1788), Mary Wollestonecraft, A Vindication of the Rights of Men (1790), James Wilson, Lectures on Law (1790-1791), Mary Wollestonecraft, A Vindication of the Rights of Woman (1792), and James Mackintosh, A Discourse on the Law of Nature and Nations (1799).シジウィック Sedgwick (1988/1902: 160-161) を参照のこと.彼によれば,グロティウス以前の道徳哲学には「倫理学と法学の領分に区別はなかった」.グロティウスは部分的にのみ,これを放棄した.さらなる議論として,Haakonsscn (1996) と Schneewind (1998). Mikhail (2007b, 2008c) とそこでの参考文献も参照のこと.

*5:ロールズが『正義論』の改訂版に加えた変更点のいくつかはこの仮定を指示するように思われる (Rawls 1999a: 40-46 と Rawls 1971: 46-53 を比較のこと).

*6:ぼくが最初に博士論文のプロポーザルの一環としてこの文章を1995年に書いたときには,この文の要旨が正確だったけれど,それはもはや完全に適切であるとはいえないだろう.このトピックに関する以前のぼくの仕事(たとえば,Mikhail 2000, 2002a, 2002b; Mikhail & Sorrentino 1999; Mikhail, Sorrentino, & Spelke 1998)によって刺激されたということもあり,言語アナロジーについての多くの重要な議論が,現在は文献として存在する.例えば,Dubber (2006), Dupoux & Jacob (2007, 2008), Dwyer (2007, 2008), Dwyer & Hauser (2008), Greene (2005, 2008a, 2008b), Harman (1999, 2008), Hauser (2006), Hauser, Cushman, & Young (2008a, 2008b), Hauser et al. (2007), Jackendoff (2007), Kar (2006), Knobe (2005), Mahlmann (2005a, 2005b, 2007), Mahlmann & Mikhail (2005), Mallon (2008), Mikhail (2005, 2007a, 2007b, 2008a, 2008b), Nado, Kelly, & Stich (2006), Nichols (2005), Patterson (2008), Prinz (2007, 2008a, 2008b, 2008c), Roeddcr & Harman (2008a, 2008b), Sripada (2008a, 2008b), Sripada & Stich (2006), and Stich (2006).けれども,ぼくの知る限り,ロールズの言語アナロジーは,このトピックについて唯一,一巻をかけて扱ったオリジナルの本であり続けている.

*7:道徳哲学者が道徳心理学を経験的によりよく説明することの重要性について,一世紀離れて書かれた二つの重要な声明として,Bain (1868) と Darwall, Gibbard, & Raillon (1992) を参照.より適切な「哲学的心理学」を発展させることが,哲学者にとって必要だとするアンスコム (1958) の重要な発言と比較してほしい.Darwali, Gibbard, & Railton (1992: 188-189) は,長い間比較的関心が払われてこなかった道徳心理学に(例えば,Flanagan 1991; Miller 1992) 1990年代初頭ごろから,多くの哲学者が道徳的な心理学に新たな関心を示し始めたことを認めている.

*8:歴史的な問題としては,言語アナロジーは,すくなくとも,アリストテレスの観察にさかのぼる.彼は言語と正義の感覚の賜物こそが人間を他の動物から区別するとした.アリストテレスの『政治学』 (1253a1-15) を参照.「ひとがミツバチや他の群生動物よりもはるかに政治的な動物であることは明らかである」.自然は…無駄なことはしない,男はことばの贈り物を与えられた唯一の動物であり,男だけが,善悪や正義・不正義といった感覚を持っているということ[も]特徴的である.そして この感覚を備えた生物の連帯が家族や国家を形成するのである.

*9:表1.1 に挙げられた著者たちの全てが,同様の,あるいは,両立可能な理論的観点から言語アナロジーのアイディアにアプローチしたわけではないことを,ぼくはここではっきりとさせておかなければならないだろう.たとえば,ベンサムの言語アナロジーは,普遍文法と普遍法学の間のつながりへの関心から生まれたものだけれど,フォン・サヴィニーのものはそうではない.リードは,正義の規則と文法の規則はともに生得的であると考えたが,ミルは道徳性が生得的ではなく,学習するものであることを主張するために,言語アナロジーを用いた.同様に,チョムスキークワインは,言語習得と道徳的発達の間の一見した類似点と相違点については,かなり異なる見解を持っている.この点を強調する必要性に私の注意を向けてくれた Allen Wood に感謝したい.

*10:道徳哲学史に関するロールズの知識は,よく知られており,ここでの詳述は必要ないだろう.幸いにも,このトピックに関する彼の講義は,政治哲学の彼の講義と一緒に,現在刊行されている (Rawls 2000, 2007; 前者の書評として Mahlman & Mikhail 2003 参照).ロールズが生成言語学に精通していたことはあまり知られていないが,ぼくが説明しようとするように,それはかなりのものであり,(いくつかの点で不十分であるように見えるとはいえ)しばしば想定されるよりも深いものだ.この点については,ロールズが 1960 年代初期に,MIT における言語哲学科の新設に貢献して数年を費やしたことを強調してもよいだろう.この時代に,チョムスキーによる言語学および心と言語の哲学の新しいパラダイムが展開し始めたのだ(いくつかの関連する背景については Pogge 2007 参照).この時代の個人的な思い出をぼくに話してくれ,ロールズへのチョムスキーの仕事の直接的,間接的な影響を議論してくれたシルヴェイン・ブロンバーガー Sylvain Bromberger,ノーム・チョムスキー,チャールズ・フライド Charles Fried,ギルバート・ハーマン,ジョン・ロールズに感謝する.

*11:ロールズの哲学的見解の多くは,彼のキャリアの過程で変更された.特に,ロールズは,包括的な道徳的な教義の一部として彼の正義の理論を捉える立場から,現代のリベラルな民主主義社会の具体的なニーズや特徴に結びついた正義の政治的構想として,正義の理論をみなすように変化した.『正義論』第9節で描写された道徳理論の自然主義的な構想は,ぼくがこの本で発展させようとしているものだが,その本質はキャリアを通じてロールズが抱き続けたものであったと,彼との会話を通して,ぼくは信じている.けれども,この主張をぼくはここで擁護しようとするのではないし,ぼくの議論はいずれもその主張に依存するものではない.ロールズの理論が時と共にどのように進化したのかについての彼自身の解釈については,おおまかに,Rawls (1980, 1985, 1993, 2001a, 2001b) を参照.

*12:この言明は,やはり,それが最初にロールズの言語アナロジーの紹介において登場したときよりも,今日では,より不正確なようだ.実際,多くの点で,それはもはやまったく正確ではないようだ.すなわち,道徳心理学は,現在ルネッサンスを迎えており,広く解釈されるところの,哲学,認知・脳科学の双方において,間違いなくもっとも実りある研究分野のひとつとなったといってよいだろう.有用かつ刺激的な論文集として,Walter Sinnott-Armstrong によって編纂された3巻のアンソロジーを挙げることができる.これらのエッセイや注 6 に記載されている参照に加えて,この後の議論に関係する注目すべき最近の貢献の部分的なリストとして,Baron & Ritov (in press), Bartels (2005), Bartels & Medin (2007), Blair (202), Bucciarelli, Khemlani, & Johnson-Laird (2008), Casebeer (2003), Cushman (2008), Cushman, Young, & Hauser (2006), Doris (200z), Doris & Stich (zoos), Gazzaniga (2005), Greene & Haidt (2002), Greene et at. (zo01), Haidt (2001), Haidt & Joseph (2004), Kelly ct a!. (2007), Killen & Smetana (in press), Koenigs et al. (2007), Lombrozo (2005), Machery (2007), Miller (2005), Moll, de Oliveira-Sousa, & Eslinger (2003), Nichols (2004), Nichols & Mallon (2006), Pinker (2005), Pizarro & Bloom (2003), Robinson, Kurzban, & Jones (2005), Saxe (2005), Schnall et a!. (2005), Sinnott-Armstrong et a!. (2005), Solum (2006), Sunstcin (2005), Tctlock (2003), Valdesolo & DcStcno (2006), Waldmann & Dieterich (2007), Wellman & Miller (2005), Wheatley & Haidt (2005), Young et al. (2007), and Young & Saxe (2008). 広範な文献は,とりわけ,Sinnott-Armstrong (2008) と Sunstain (2008) で確認できる.