Slavoj Zizek "NO SEX, PLEASE, WE'RE POST-HUMAN!" ②

私たちはみな、アラン・チューリングの有名な「模倣ゲーム」を知っている。これは機械が思考できるかどうかを試すのに使われる。このゲームでは私たちは2台のコンピュータ画面に向かって会話し、ありとあらゆる質問をする。一台の画面の後ろには人間がいて答えをタイプする。もう一台の画面の後ろにいるのは、機械だ。チューリングによれば、もし回答に従って知性ある機械と知性ある人間とを見分けることができなければ、その失敗こそが、機械が考えていることの証明になる。実はあまり知られていないことなのだが、最初の形式化においては、関心事は人間と機械とを見分けることではなく、男性と女性とを見分けることであった。性の差異から人間と機械との差異へのこの奇妙な置き換えはなぜだろうか?単純にチューリングの奇癖ゆえだろうか(彼のホモ・セクシュアリティゆえの有名なトラブルを思い出そう)?いくつかの解釈によれば、ポイントは二つの実験を対比させることであったという。男性が女性の反応を模倣することに成功しても(逆も然り)、それは何も明らかにしない。なぜならジェンダーアイデンティティは記号の連なりには依存しないからである。一方、機械が人間をうまく模倣できることは機械が思考していることを証明する。なぜなら「思考」とは究極的には記号を適切に系列化することだからだ。しかし、もしこの謎( エニグマ*1 )の解明がずっとシンプルでラディカルなものだったらどうだろう?つまり、セックスの差が生物学的事実ではなく、現実界において人間性を規定する対立であったとしたらどうだろう?だとすれば、ひとたび性差が捨て去られれば、人類は事実上、機械と区別不能になるのではないだろうか?
 
続く

*1:訳注:チューリングは第2次世界大戦中、政府暗号学校ブレッチリー・パーク(1939年9月に招集された)でドイツの暗号エニグマの解読に多大な貢献をした(はてなキーワードより)。