ガレス・エヴァンズ『指示の諸相』導入

Evans, Gareth. (1982). The Varieties of Reference. Oxford: Clarendon Press.

重要な著書だけれど,未だに翻訳が出版されないので,さわりだけ.

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

  • 作者:Evans, Gareth
  • 発売日: 1989/05/04
  • メディア: ペーパーバック
 

ふつうに観察した場合には似ているように見え,ふつうの目的においては似たような振る舞いをするものは,同じ名前で呼ばれることが多い.人々がもっと詳細に観察する方法を身につけ,理論構築に興味を持つようになると,こうしたグループ化の多くは修正されなければならなくなる.クジラは,表層的に似ている魚類には属していないのだ.今や,ぼくたちの直感的な意味論的分類は,同じような修正を必要としているのかもしれない.
「何を意味しているんだい?」,「誰について語っているんだい?」,「それは君が言った事じゃない」,「それは真実ではない」.これらは街場で用いられる,大まかで平易な意味論的概念だ.これらは哲学者や文法学者,教師など,様々な人々によって使用され,洗練されてきた.彼らは自身の言語の作動について省察せざるをえなかった人々だ.そして,こうした洗練を経てもなお,これらの概念は,言語の形式と機能においてきわめて顕著な類似性を反映し続けている.本書の目的は,こうした直観的意味論の一つのグループ化,すなわち単数辞 singlar terms あるいは指示表現 referring expressions *1のグループ化が,自然言語についての,もっと発達した意味論の中に位置づけられるかどうかを検討することだ.もしそうだとしたら,こうしたグループ化はどのような地位をもつのだろうか?
指示表現の分類には,伝統的に,固有名詞,確定記述(「世界でもっとも背の高い男」),直示語(「この男」,「あの女」),そしていくつかの代名詞が含まれる.この伝統的な分類においては,(文法的な)形式が部分的に類似しており,機能も部分的に類似している.ぼくが言及したそれぞれの種類の表現は,名詞句によって構成されている.そしてそれらは主語-述語文において,伝統的な主語の位置を占めることができる.こうした表現は,「タバコを吸う」といった(単項)述語と組み合わさって,完全な文を生み出す.他方,「ある男は」,「どの少女も〜ない」,「どの少年も」といった量化子表現も同じ位置を占める.けれども,これらは指示表現とはみなされてこなかった.あるいは,すくなくとも,一貫して指示表現であるとはみなされてこなかった.ここで,役割や機能についての直感的な概念の出番となる.指示表現と述語(例えば「タバコを吸う」)を結びつける場合,話者は,ある特定のことについての発言をしていると受け取られることを意図している.つまり,あるひとりの特定された個人が喫煙をしているかどうかに応じて,真か偽かが決定されるような発言だ.このように,指示表現の役割は,発言の真理値に関係する対象がなんであるかを聴者に示すことにあるといわれている.例えば,A.N. プライヤーは次のように書いている.

我々がある言明をなす際,どの個物について語っているのかを示すために用いる表現を,論理学者は一般的に,名前によって理解する*2

また,P.F. ストローソンも同様のことを書いている.

「何(誰,どのこと)について語っているのか?」という…質問を防ぐのが,指示がとりくむ…課題だ*3

ここでポイントとなるのは,〔指示表現の役割が言明の対象を特定することだとしても,たとえば〕「誰々がタバコを吸っている」という言明は,それが真である場合,ひとり以上がタバコを吸っていることによって常に真になっているのではない.なぜならば,誰々は一人しかいないかもしれないからだ.むしろ実際は,タバコを吸っているいるひとが,仮にいるとして,それが一人しかいないということがこの発言を真にしているのだ.この事実は,聴者に慣習的に示されるものではない.これは指示表現という分類が持つ,第二の,機能的な側面なのだ.この側面は,次の形式化によって捉えられるかもしれない*4.すなわち,「もし t が,"t は F である" と "t は G である" という両方の文の生起において同じように理解される指示表現であるならば,これらの文が真であることから,次のことが論理的に帰結する.つまり,F かつ G である何かが存在する」.

指示表現であると伝統的にみなされてきた全ての表現が,この役割を果たしているといえることは否定できない.けれども,ぼくたちの疑問はこの事実の重要性に関わる.この類似性はもっと深い差異を隠蔽しているのではないだろうか? 仮にこの機能を意味の理論が認めるべきものだとしても,それぞれの表現が果たしている,根本的に異なるあり方がないだろうか?

こうした問いは決して新しいものではなく,哲学文献で広範な議論がなされてきたため,歴史的な前置きはほとんど不可避だ.系統的な意味理論はフレーゲから始まった.とはいえ,ぼくの提起した問題についての理論的考察として捉えることのできる指示の理論は,ある意味では,ラッセルから始まった.なぜなら,伝統的なグループ化の妥当性について初めて問いただしたのがラッセルであり,それによってこうした問いが哲学において注目の的となったからだ.他方,フレーゲの意味理論は非常に洗練されていたにもかかわらず,フレーゲは,指示的表現として直感的にみなされる語のカテゴリーを理論の中心にすえることで満足していた.
とはいえ,ぼくはフレーゲから始めたいと思う.というのも,フレーゲは,ぼくたちの探求に非常に重要な,コミュニケーションの状況モデルの創始者だからだ.ある場合は,彼のモデルを使うことができ,ある場合は,それを拒絶しなければならない.けれども全ての場合において,彼のモデルは明確で効果的な基準となるものだから,本書全体を通じてフレーゲのアイディアを扱うつもりだ.

ぼくは,指示表現の主な種類のすべてを考察しようとした.それによってある種類の働きを他の種類の働きと比較し,他の種類の働きに光を当てるできるようにしようと思った.そして,多くのことが未だ明らかではないことを意識してはいるけれど,この作品を指示という現象についてのかなり包括的な探求へと仕上げようとした.けれども,ぼくが観察することのできた重要な限界が一つある.それは,存在論の問題を無視してきたことだ.ぼくは,ある言語の話者が,あれやこれやの類の対象を構成する存在論を有しているということが何を意味するのか,あるいは,それをどのようにして立証することができるのか,といったことに踏み込んだことはない*5.実際,ぼくは先人たちの多くにしたがって,時空間的な個物に対する指示に集中してきた.けれども,議論のさまざまなところで,慎重な建築家のように,後から追加されるべき構造へと思いを馳せたつもりだ.

 

 

*1:今後はこの二つの語句を交換可能なものとして扱う

*2:Objects of Thought, edited by P. T. Geach and A. J. P. Kenny (Clarendon Press, Oxford, 1971), p. 155. (ぼくはプライヤーが「名前」という語で全ての単数辞を意味していると前提している

*3:'On Referring', in Logico-Linguistic Papers (Methuen, London, 1971), pp. 1-27, at p. 17. (Reprinted from Mind lix (1950), 320-44.)

*4:このセクションは id:emerose さんからの助言に基づき完成させました

*5:こうした問題に関する議論については,ぼくの「同一性と述語」,Journal of Philosophy lxxii (1975), 343-63. を参照のこと