Slavoj Zizek "NO SEX, PLEASE, WE'RE POST-HUMAN!" ①

 
 zizek/post-humanより
 
 Les Particules Elementaires

 
 
 
 
 
 
ミシェル ウエルベックの1998年から続くベストセラー 『Les Particules Elementaires (邦題:素粒子)』 はヨーロッパ中に議論を引き起こした。そしてこのラディカルな「脱-昇華」の物語(もしそんな物語があるとしたら)はついにイギリスでも入手可能となった。高校教師ブルーノは性的に満たされていない快楽主義者であり、彼の異父兄弟であるミシェルは輝かしい才を持つ生化学者だが感情面では無味乾燥だ。彼らは二人とも幼い頃ヒッピー族の母親から捨てられ、そこからうまく立ち直れないでいる。結婚であれ、哲学であれ、ポルノの享受であれ、彼らの幸せの追求は孤独と挫折に行き着くだけだ。ブルーノは意味のない奔放なセックスの挙句に精神病院で生涯を終える(40代同士の性的乱行を巡るこれほどまでの陰鬱な描写は現代文学においてもっとも読むに耐え難いもののといってよい)。一方ミシェルは解決法を見出す。ポスト・ヒューマンたる脱-性的存在のための自己再生産遺伝子を発明したのである。この小説は予言的な光景で終わる。2040年、人類は、性の行き詰まりを避けるため、遺伝子的改変により無性生殖を実現したヒューマノイドと置き換わることを集団的に決定するのだ。これらのヒューマノイドは相応しい感情を持つことがなく、破壊的な激情につながる激しい自己主張を行わない。
 
40年ほど前、ミシェル・フーコーは "man" という概念を、今となっては洗い流されようとしている砂に描かれた絵の様なものであるとして廃棄し、「人間の死」(人間/男 man の死)というファッショナブルなトピックを導入した。ウェルベックにおける人間の消滅は、人間をポスト・ヒューマンたる生物種で置き換えるという、よりナイーブで文字通りのものだが、二つの間には共通の特徴がある。性差の消滅である。フーコーはその最後の著作において性から自由となった快楽の世界を夢見た。ウェルベックが描くクローンたちのポスト・ヒューマン社会は「快楽の活用」を実践する私たちの自我のフーコー的夢想の実現であると指摘したくなるだろう。この解決法はあまりに純粋すぎるファンタジーであるが、直面している行き詰まりは現実のものだ。「魔法から覚めてしまって」、解き放たれてしまったポストモダンの世界では、制約のない性は『素粒子』で描かれた集合的性的狂乱へのしらけた参加へと零落してしまっている。(ラカンの言う「性関係はない」という意味での)性的関係の構造的な膠着状態はここで破壊の頂点に達するのだ。