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  • そうだ、僕たちは自由意志をもっている。プロザック (とかその他のドラッグ) を来世のために一日一回飲みさえすればね。

 

  • そうだ、僕たちは自由意志をもっている。機械により近づいて見たいときに横目で見る技をマスターしさえすればね。

 
しかし、問題はゴルフのようなものなのだ。スウィングが終わるまでは頭を下に向けるようにアドバイスするプロゴルファーを想像してほしい。
 

しかし、これがどうして良いアドバイスなのだろう?ボールはスウィングの途中でクラブを離れる。ボールが軌跡を描き出した後で、ティーに起こることが軌跡を変えられるはずがない。ボールがクラブを離れた後のスウィングの細部にまで注意することは、ただの願掛けのようなものではないだろうか?実は必ずしもそうではないのだ。なぜなら、スウィングの後までをしっかりと見越すことがショットの瞬間の出来事をうまく成り行かせるためのおそらく唯一の方法なのだから。そうすることで、ぴったりのスピードでぴったりの位置を横切るような体の動きを作り出し、スウィングの瞬間の適切な条件を満足することができるのだ。ショットの後のことは何の関係もないという議論に基づいてプロのアドバイスを軽視するのは愚かなことなのだ。ショットの後のことこそが重要なのだ。時に、本当にしたいことをするための唯一の方法は別のことをすることだったりするのだ。

 
(ゴルフにおいて) 頭を下に向け続けることが、自由意志においてはあの世を信じることにあたるとしたら、どうしよう?はたまた、旧約聖書の神を信仰することだったら?自由意志のためにはちょっと法外な値段を支払うことになりはしないか?もし君が単純に信じきることが出来なかったら?僕らは自由意志に必要な純潔を失ってしまっているのか?
 
ロバート・フランク Robert Frank は次の様に注意を促す。
 

ニューヨークの裕福な夫婦が子供たちのための女性家庭教師を雇うときのことを考えてみなさい。監視なしでも信頼できる働きをするような者を雇うには、ニューヨークが適切な地方市場でないことは経験上明らかだ。
多くのそういった夫婦の解決法はソルトレイクの新聞に女性家庭教師募集の広告を出すことだ。モルモン教の伝統の中で育った人物は平均的なニューヨーカーよりも信頼できることを彼らは知っているのだ。

 
以下のような不安な見通しもある。
 

  • そうだ、僕たちは自由意志をもっている。でも全員がもっているわけじゃない。実際、自由意志に必要とされる、直感的に妥当な道徳性のレベルに達しているのは、「健常な」成人のだいたい10%くらいだ。ほとんどの人間は責任を有するというにはあまりに自制が効いていないし、永遠なる幼年状態にあるべきで、彼らが野放図にならないように管理できる限りで甘やかされるべきなのだ。

 

  • そうだ、僕たちは、僕たちのほとんどは、自由意志をもっている。けれども僕たちひとりひとりは、道徳性の有り無しの、一種のチェス盤みたいなものなんだ。アル中のアダムでも、乳母車をひっくり返すまでは、あなたの子供を信頼して預けなさい。強迫観念症のアイリーンでも、話題が妊娠中絶についてではない限り信頼しなさい。その話題が出てきたときは、彼女は単に思考が止まっているだけなのだ。協調性と品位に関しても、成人一般を信頼しなさい。彼らが経済学の単位を取りすぎていない限りはね!

 
もちろん、これらは自由意志についての冷淡で絶対主義的な言説を破滅的に要約したものであることを僕たちは知っている。トリ・マッギア Tori McGeer が (私信で) 指摘したように、自由意志はタダで手に入るようなものではないことを、僕たちは既に知っているのだ。もし自分に関する知識があるなら、必ず自分の弱点を発見できるのだから、自由意志がタダでは手に入らないことは明らかだ。そして、僕たちは愛する人々の中にも弱点を見出すし、これはもっとも受け入れがたいことだけれど、しぶしぶ救ってやらなきゃならない敵の中にも見出すのだ。自由意志に関する伝統的概念に近いものを僕らが守り続けてしまう強い動機は、(口に出されることはないのだけれど) 世界の悪人が「彼らの望みどおりのもの」を手に入れる様を見てみたいという、僕ら自身の欲望にあることを率直に認めようじゃないか。そして確かに悪人たちは、糾弾や非難や (もししっかりとした法体系があるのならば) 刑罰を欲しているのだ。刑罰のない世界になんて、誰も暮らしたいなんて思わない。
 
僕たち自身やその同胞に関する展望を作り上げるためには、毀誉褒貶・賞罰の役割に関する研究、人間の動機の複雑さに関する研究、信念(そして、信念に関する信念)についての研究をうまく結びつける必要がある。それは、取り組む上での失敗が痛みを増大させるような、困難な課題となるだろう。けれどもうまくやりとげることが出来たとき、僕たちの手は強く握り交わされるはずだ。