中井英夫『新装版 虚無への供物(下) (講談社文庫)』(読了)

新装版 虚無への供物(下) (講談社文庫)
 
 
たぶんネタばれありなのでご注意ください。
 
 
 
 
年末から読み始めてようやく読了。
いまいち乗り切れないまま終わってしまった。これは別にこの小説を非難しているのではなく、この本の存在目的(つまり、「虚無への供物」)を考えると、読者を乗せきらないその手法は、パフォーマティヴな意味では正しいのだと思う。この饒舌すぎるほどの文体に、その過剰さゆえ、至るところで僕は脱臼させられ、そのたびに覚える拠所なさから、ついつい他の本に逃げ込んでしまう。それが読みやすい文体にも関わらず2ヶ月もかかった理由。
黒い水脈(みお)を謳うだけあって、江戸川乱歩小栗虫太郎を始め洋の東西を問わぬ探偵小説からの引用、五大不動明王縁起に絡めた東京の地理、昭和30年代の頽廃的な雰囲気、鉱物や薔薇に纏わる衒学など、濃厚な情報が次々に雪崩れ込んでくるのだが、それらの小道具は機能不全を起こしている。なぜなら作者の中井自身、読者をある一定の雰囲気で包み込むことに躊躇っているからである。僕ら読者は次々に投げ渡される舞台道具を受け取るまもなく、そして、中井はそんなことおかまいなしなのだ。ただ投げ続けること自体が重要であるかのようだ。登場人物によって次々に披露される、こじつけめいた推理も、すぐにまた別の作中人物から否定される。ただそれぞれの推理が孤立して存在するだけだ。ここでは推理小説における弁証法は成立し得ない。まるで小学生がよくやる「違うよ、それ。そうじゃなくて、オレはね…」といった会話を無限ループで聞かされている気分に陥る。
なんというか、この小説は、どこにも収束点の見出すことのできない現代社会の写し絵のようなのだ。
至って理路整然と真犯人は読者の前に明かされるのだが、結局、全ての推理が正しく、全ての推理が間違いなのである。誰もが殺人の当事者であり得るこの時代に推理小説は成り立ち得ないということだ。至って生真面目に、不真面目な小説構築を行った末に、提示されたテーマは背筋に少し寒気を覚えさせるようなものだった。
 

><