鏡よ鏡

kitone
僕は自分の命を、命そのもの以外の何か特定の一つのもののために燃焼させるにはまだ若すぎるのかも知れない。いや、自分に言い訳を与えすぎないように、経験が浅すぎ、かつ、才能に乏しすぎる、と訂正しよう。同じ歳で遥かなる偉業を成し遂げた才人は枚挙に暇がないのだから。
哲学も文学も脳科学も(僕は建築家になりたい)、それから大阪靱公園で隣に寝たホームレスだとかプノンペン郊外に積み上げられた頭蓋骨だとか新潟水俣病患者の肉声テープだとか、とにかく無数のイメージが火花を散らして僕の神経回路網を徘徊する。僕の命の軌跡が無数のイメージのうちのどれに収束するのか、知らない。そもそも収束すら有り得ないのかも知れない。だけど今この瞬間の混沌の中からしか未来は生まれ得ないことを信じている僕は、ひとまず今日を生き伸びることに決めた。
 
土曜日は村上春樹シンポジウム『春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか』に出た。基調講演をされたリチャード・パワーズ氏はパワフルでユーモラスで魅力的な人だった。しかし―彼の本を一冊も読み終えていないのだから、本当は何とも言えないのだけれど―脳科学に関しても村上春樹の読み方にしても熱情の余り上滑りをしているような印象を受けた。その点はコメンテーターの Leung Ping-kwan 氏(香港)が冷静かつやんわりと指摘していて、僕はむしろこちらに共感を覚えてしまった。後日改めてきちんと書こうと思うが、パワーズ氏が村上春樹を語る際のキーワードはミラー・ニューロンとグローバリゼーションである。やれやれ。
土曜の夜はウォーター・フロントに居を構えた先輩のお宅にお邪魔した。虹の橋の大パノラマを肴に酒をあおりながら、僕自身はこの景色を手に入れるべきではない、などと傲慢なことを考えた。安んぜよ、酸っぱいブドウなり。
日曜日も続けて村上春樹シンポジウム。の前に市長選に。熟慮の末に投票した初めての選挙だったかもしれない。シンポジウムは、翻訳論と表象論の二つの会場に別れていたが、僕は表象論。村上春樹が翻訳・出版されている世界各国(四方田犬彦氏言うところの「勝ち組」の国々。壇上の人たちが世界を代表しているのではない。村上春樹を読まない/読めない国について思いを巡らすべきであるということ)の翻訳者が一堂に会してのパネル・ディスカッション。文化異なれば読みも異なる、という事実が如実に表れていた。村上春樹に無臭性を読み取る文化は、その文化自体も無臭化の途上にあるのである。
シンポジウム後はLisbon22くんと神泉のBUCHIで立ち呑み。新橋あたりの猥雑な立ち呑み屋が大好きなのだけれど、ここはワインが相応しいシックなスタンディング・バー。とはいえ僕は焼酎ばかり飲んでいました。ワイン・焼酎共にとても豊富なラインナップで、銘柄の難しい漢字の読み方を聞きながら次々と呑んでしまった。
 
そして今日。ローソン屋さんでねぎ塩豚カルビ弁当をひとつ買ったところ、「3660円になります」とレジ・ガール。「え?」とこちらも半ば呆然としつつ聞き返すと、再び平然と「3660円です」と。今日一日で随分インフレしたのかい。いやいや前のお客さんの勘定にそのまま足されてしまったようで。
頭回ってないな〜。ゲーム脳かも知れません。