晩秋を迎えるために(または週末)
可能性の悪魔について考える。
可能性が眼前に幾股にも広がっていることを称揚する人々がいる一方で、私にとって、可能性は時に悪魔である。可能性は、将来についての膨大なシミュレーションおよび過去の選択についての悔恨を私に強要する。私が自由である、ということは、数限りない可能性の中から、相応しい、人としてあるべき道を選ぶことの義務を意味する。チェス王カスパロフを破ったディープ・ブルーが、計算可能な全ての手を比較検討して初めて、ポーンを前に一歩進ませるのと同様、私は一挙手一投足に関してありとあらゆる政治的・経済的・倫理的帰結を考慮しなければならない。当然生じるのは思考回路のショート、すなわちフレーム問題。
金曜日は学科の同窓会。といっても召集がかかったのは男だけ。ヘテロ・セクシャルとして自らを規定する私にとっては、セックスに関するフレームを設けることで心理的問題を回避する賢明な選択である。セックスとは、ありとあらゆる可能性の中でも、最も比重が高く、多大なる心理的負担を強いる問題群である。私にとってヘテロ・セクシャルという選択は、「セックスという可能性を考慮する必要のない」世界人口の半分にも及ぶ巨大な集合を作りだすための操作なのかもしれない。一旦、ヘテロ・セクシャルという選択が行われれば、同性間のセックスは「禁じられ」、自らの安寧のために行われた巧妙な操作は隠蔽され、ホモ・ソーシャルな惰眠を貪る。とはいえ、懐かしい面々との和やかな会話の隙間から、過去の可能性が私を侵食する。選択されることのなかった、女たちとの、或いは、男たちとの、可能性たち。墓石の下でも安らわぬ可能性たち。ビバヒル・フォーエバー。
帰りの電車の中で、次の日の J・M・クッツェー講演のためにと、『恥辱』を復習。セックスを老いてもなお引き摺ることの重荷。老い、動物の生命倫理、同性愛、人種問題、レイプ、植民地主義。次に手に取る初読の『マイケル・K (ちくま文庫)』は冒頭から脳天を打ち砕く。鬱々たる心持ちで眠る。
翌日、クッツェーは淡々とベケットについて語る。「ゴドーを待ちながら」しか知らない私には勿体無さすぎる機会だったが、エモーションの欠片もなくこの世界の暴力性が語られていくさまは、さながらカフカの世界。
雨の日曜日、堪らず私が逃げ込んだのはデイヴィドソンの「強いられた寛容」によるコミュニケーションの可能性。もちろん可能性の悪魔はここにも潜む。言語の非実在性は肯んじ難く、頭を抱え込む。冷房の効きすぎるカフェと灰色の秋雨。
はやく生の晩秋が来ればよいのだ。