マラノーチェ@渋谷シネマライズ

 

 
 ガス・ヴァン・サントの封印されていた長編デビュー作。
 日曜日の夜、パルコ劇場の舞台撤去の仕事をしていたとき、向かいのシネマライズではちょうどこの作品が上映されていて、悔しくてたまらなかった。昨日仕事に一区切りがついたのでここぞとばかりに。
 
 映画祭で絶賛されたにも関わらず公開されなかったのはモノクロ作品でゲイがテーマのため配給が難しかったらしい。
 マラ・ノーチェとはポルトガル語で「最悪の夜」の意。ポートランドスキッド・ロウ (貧民街) を舞台に、ゲイの白人ウォルトと不法入国のメキシコ人少年ジョニーとの関係を描く。原作はビート・チルドレンの詩人ウォルト・カーティスによる同名の自伝的小説から。ウォルト・カーティスは脚本にも関わっている。

 ほとんど全編に渡って粒子の粗いモノクロ映像。冒頭のどこまでも広がる平原と雲が、以降連綿と連なるガス・ヴァン・サント作品の原型を示す。ゲイとストリートのはみ出しもの、というおなじみのテーマもデビュー作で既に完成しているといっても良い。
 言葉の壁とセクシュアリティの壁の2つを挟んで繰り広げられるウォルトとジョニーの関係には、バックに流れるメキシコ音楽と同じように、悲しみと背中合わせの陽気さがある。結末だけを見れば、ジョニーに惚れ込んで甲斐甲斐しく世話を焼くウォルトが利用されただけなのだけれど、それだけで割り切れない気持ちになるのは、成就しない恋愛によくある話。
 愛は現実として在るのではなく、潜在的なものなのだと考える。それは人を駆動するけれど、決して手に取れるものではない。街角やハイウェイで戯れる彼らの瞬間を切り取ってきたとき、それを愛や搾取と分類することは不可能で、瞬間にこそ血が通う (そんな場面はカラーだったりする) がゆえに、ウォルトは駆り立てられてしまう。
 二人の距離は一定以上縮まることなく映画は終わる。ストリートに立つジョニーに運転席から一声かけて走り去るウォルト。瞬間が積分されて、気怠さが訪れる。

 ガス・ヴァン・サントのストーリー・テリングに期待していた僕には少し期待はずれだった。映像と音楽を楽しむ。ベートーヴェンもいきなりかかって面白い。エンドロールのチープなガールズパンクも格好いい。デビュー作に全てが詰まっているというのはやはり当てはまる。もう一度、『マイ・プライベート・アイダホ』が見たくなった。

 ところで、思うようにならない恋を嘆く場面でウォルトが ”impossibility of love” という言葉を使う。大澤真幸さんが出てきそうだが、あちらでは普通に使われているのだろうか。字幕は「愛の難しさ」とさらり。でもちょっと違うんだよなあ。ドイツでは子供でも「アウフヘーベン」という言葉を普通に使うという話を思い出した。