それだ!それだ!それが出れば画になりますよ

 

 

 採菊東籬下(きくをとるとうりのもと)、悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる)。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏(ひとりゆうこうのうちにざし)、弾琴復長嘯(きんをだんじてまたちょうしょうす)、深林人不知(しんりんひとしらず)、明月来相照(めいげつきたりてあいてらす)。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。

 
 梅雨が明けたのかどうかは知らないが、強烈な日差しが照りつけていた。焦げついたアスファルトの上で何やら茶色くか細いものが風に靡いている。歩み寄ってみたらそれは干からびたミミズであった。
 煙草をふかしながらしばらく眺めていたのだが、ふらりふらりとした動きが妙なので更に腰を屈めて目を凝らしてみれば、蟻がミミズの死骸を引き摺っているのだった。
 距離を縮めていくたびに全く違う世界が見えてくる。生命が関わるかどうかで、何故、物事はかくも異なる印象を僕に与えるのだろう。事実としては茶色の干からびた線状の物体が揺れているだけなのに。そこに魂の抜け殻があるからだろうか、黒い小さな塊の中に複雑な化学的・電気的現象が潜んでいるからだろうか。
 複雑な化学的・電気的現象を「主体」として認知することが生存上有利な戦略だったとしても、僕が蟻に引き摺られるミミズから受けたもの哀しさは積極的に自然選択されてきたものというより、その戦略にたまたま付随してしまった余剰物なんだろう。
 ここまで考えて、僕自身が余剰物なのだ、と思い至ったので思考を止めた。
 

 
 ありのままに自然を眺めようとすると、そこから情味も消していくことになる。漱石が言う非人情というやつだ。それは決して薄情であったり残酷であったりするわけではない。ただ、事物に心理状態を好き勝手に割り振るのをやめるだけである。それから自分と意識とも切り離してしまう。自らをただのスクリーンに変えてしまう。耐えかねる痛みを感じたときは、意識を自分から切り離してしまうことを僕は覚えてきた。そうすると遣り切れなさは消え、経験者の伴わないただの痛みがそこにあるのだった。
 二十一世紀に睡眠が必要ならば、二十一世紀にこの出世間的の詩味は大切である。
 
 ところで僕が最も好きな日記文学永井荷風の『断腸亭日乗』だ。延々とその日その日の絞り粕のような質素な言葉が並んでいるだけなのだけれど、残り香すら薫り高い。出世間に徹しようとして、それでも、ついつい世情に口を挟んでしまう荷風先生も愛らしい。
 けれども、僕が日頃読ませていただく様々な方々の日記も負けずに美しいと思う。こんな風に軽やかに日々を綴れたらいいな、と思う。同じ一日をそれぞれがそれぞれのやり方で過ごしている、という事実自体が美しい。様々な人々の様々な一日を眺めていると、同じ一日という言葉自体が全く不適当なのだけれど、それを暦の上でひとくくりに2007年7月24日と纏め上げてしまう人間も、哀しくて美しい。
 
 今日は今までの解析結果をまとめて先生とディスカッション。ようやく論文執筆に入る。はっとするような美しい画を描きたい。