ぼくらの住むこの世界では / The Places We Live

我々の共通場は、たとえそれが今日は何の効力がなくとも、世界を唖然とさせる諸々の抑圧の事実に対してまったく無力だとしても、世界の人々の想像界を変化させることに力があると思われる。我々が我々の身にふりかかった悲惨な状況に根本的に打ち勝つのは想像界によってである。想像界はすでに我々の感受性の流れを変え、我々の悲惨を克服する一助となっている。(エドゥアール・グリッサン『全‐世界論』)

泳いだあとの心地よい疲労とまだ皮膚に残る流水の感覚に包まれて、暖房の効いた研究室で論文をひとつ読み終え、窓の外に広がる世田谷の夜景をぼうっと眺める。Nina Nastasia を聴きながら kebabtaro さんの日記に張られたリンクを何気なくクリックした瞬間、窓が広がり、雑踏の中に立っていた。二つの耳の間でスラムの喧騒とニューヨーク生まれの暖かな音楽とが混ざりあう。地平線のかなたまで続く屋根の無限の繰り返しにめまいがする。どこなんだろう、ここは。
http://theplaceswelive.com/
書き留めておきたいこととか、あのひとに伝えたいこととか、沢山あるんだけれど、ありすぎて、うまく言葉にできないときには、詩人に頼るしかない。つまり「ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり 喜びと悲しみが時に訪ねる」ってこと。places と世界を等置してしまうのは単複を区別しない日本語の利点というか、暴力というか、わからないけれど、kebabtaro さんのいう「"We" のあいだの深い隔たりをそれでも等号で結ぼうとする」営みともどこかで繋がるようにも思う。
僕がぬくぬくと暖をとりながらパソコンの画面でスラムの写真を眺めていることには勿論無反省ではいられない。でもスラムの喧騒と Nina Nastasia のくぐもった声、チェロの響きとが混ざりあったあの瞬間はとても美しかった、ってことだけは本当なんだ。ムンバイとニューヨークと東京がふとした偶然で混ざりあった瞬間。抵抗と独善とはどうやら紙一重らしいので、ほんとうに困るんだけれど。
 

The Places We Live

The Places We Live

調べたところ、写真家は今年からマグナム・フォトの正会員となった Jonas Bendiksen という人*1。さっそく Amazon で注文。

*1:彼のページより:「僕は毎日の見出しを巡る競争に置き去りにされたストーリー (まあジャーナリズムの孤児とでも言おうか) を扱うのが好きだ。レーダーのすぐ下を飛んでいる、隠されたあやふやなストーリーの中にこそ、最も価値と説得力を備えたイメージが隠れているんだ。」