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仮に機能的構成と神経における実装との関係をこのように理解したとしても、機能的構成理論の有用性に関しては一枚岩の攻撃がなされてきた。近年では理論への攻撃は哲学者からではなく、神経科学と計算論的モデリングのあるコミュニティーからなされている(例えばラメルハートとマクレランド 1986*1チャーチランドとセジノウスキ 1992*2、エーデルマン 1992*3 )。これらの一派によれば、科学的事実はニューロンの中にあり、ニューロンの中にのみあるということだ。それゆえ、やはり図1.1のようなモデルを構築することには何の意味もないということを彼らは主張する。
私はこのような還元論的立場の裏にある衝動を理解できる。この20年間、私たちは神経システムを理解するための驚くべき新技術の爆発を目の当たりにした。個々のニューロンおよび全脳の活動の記録、知覚および認知プロセスの計算論的モデリング、そして生化学的活動としての神経システム・プロセスの説明…。そのような研究は「ハードウェア」の理解に大いに依存している。もちろんそれらの探求に私は全くの共感をもっている。さらに、機能的な意味での「心的計算」 mental computation の一部は、標準のアルゴリズムを持つコンピューターとして見れば非常に奇妙であるが、ニューラル・ネットのモデルからすればむしろ自然なのである(6章を見ていただきたい)。だから、脳とは機能的に異なる、線形でデジタルなチューリングマシーンの「古き良き人工知能」として f-mind を扱うのは、断念すべきだろう。
一方で、還元論的観点での研究は、機能的な観点による優美で手の込んだ研究を全て否定するようなことがしばしある。その中には図1.1を導くような研究も含まれる。しかし代替案はほとんど提案されていないのだ。現時点で私たちが手にしているのは、イメージングと脳損傷、個々のニューロンとそれらの小集団の記録からなる、比較的時間および空間の分解能の悪い脳活動のデータである。少数の例外(初期視覚、例えばヒューベルとウィーゼル 1968*4 )を除き、脳のそれぞれのエリアが何をどのようにしているのか、そしてどのような「データ構造」を処理し、蓄積しているのかを本当に理解しているとは到底いえない。特に、一回の発話のようなシンプルな認知的構造がどのようにニューロンに物理的に実装されているかについて、これらの新技術も全く明らかにしていないのである。
続けて言えば、言語学者が続ける基礎的研究、例えばアイスランド語における格付与だとか、モロッコアラビア語における強勢だとか、タガログ語における重複だとかは、少なくとも予測可能な未来においても、神経科学の中に居場所はないだろう。言語学者はこの種の研究を、神経科学が追いついて来るまで氷の上に置きさらしにしないといけないのだろうか?私は、双方のアプローチからの洞察を受け入れられるような代替的な立場を模索するのが価値あることだと考える。

*1:Rummelhart, D.E. & McClelland, J.L. (1986) Parallel Distributed Processing: Explorations in the Microstructure of Cognition: Foundations Cambridge, Mass.: MIT Press

*2:Churchland, P.S. & Sejnowski, T.J. (1992) The Computational Brain (Computational Neuroscience Series) Cambridge, Mass.: MIT

*3:Edelman, G.M. Bright Air, Brilliant Fire: On The Matter Of The Mind New York: Basic Bools (邦訳『脳から心へ―心の進化の生物学』)

*4:Hubel, D. & Wiesel, T. (1962) 'Receptive Fields and Functional Architecture of Monkey Striate Cortex' J. Physiol. (Lond.) 195:215-43