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本当の自由意志を理解する鍵は、奥深くにある何か特別な塊の中ではなく、文化に囲まれ、社会化され、相互作用し、認識しあう、主体としての人間の無数の関係の中にこそ自由意志が宿ることを知ることだ。紐を操る人形師に全ての力を詰め込んでしまうデカルトの誤謬を古い伝統は犯している。この内側の主体を消し去って、その任務を脳全体のみならず、身体や、「外界の」文化貯蔵庫 ―ミーム、それからほんの少しの (人間の) 友人たちの助け― の中に分散させてしまえば、僕たちは自由意志を消し去る必要なんてないのだ!僕たちは自由意志を時空間の中に分散した現象として見做すこともできる。これが『Elbow Room』 における皮肉な公式「君自身を本当に小さくしてしまえば、あらゆるものを外在化できる」のポイントだ。君自身を、君の自己を、小さくするな。それこそがデカルトの誤謬なのだ。責任を取り道徳的に振舞うために十分大きく、しかも神秘的ではなく、かつ価値のある、自己の概念が存在することを認識しよう (ウェグナーの中にあるデカルト主義の残滓について論じたDennet 2003a, 2003b, 2004 も参照してほしい)。
 
デカルト的な自由意志や、善悪・道徳的責任に対する絶対主義的な考え方の愚かさに過剰反応してしまったドーキンスは、善悪の概念もろとも放棄することまで思い描いてしまっている。ウェグナーは読者に向かって「道徳的行動は確かに実在する」ことを請合っているけれども、(自由意志が幻想ならば) どうやってそれが可能になるかについては述べようとしない。ウェグナーと同様、ブラックモアも道徳的責任の概念を丸ごと捨て去ることに尻込みしている。そして 「自己複合体 selfplex」 という観点をすっかり捨て去った人体にとって世界がどのように見えるかについて、短く楽観的な言葉で著書を締めくくっている。
 

そのような自己への配慮の欠如はあなた (身体的な個人) が他の人々にもっと自由に注意を配えることを意味する。哀れみと感情移入が自然にやってくる。もし邪魔になる神話的な自己についての関心がなければ、別の人物が何を必要としているか、あるいは与えられた状況下でどうるまうかを理解するのは容易である。おそらく真の道徳性の大部分は、何か偉大で高貴な行為を引き受けることよりもむしろ、単純に私たちがふつうに行っている有害な行為、つまり自己という偽りの感覚をもつことに由来する有害な行為をすべて止めることであろう。*1

 
おそらく正しく、そしておそらく間違いだろう。彼女は法や賞罰の体系まで放棄しようとしているのだろうか?自由意志の伝統的概念によって育まれたその他と神話と一緒に、誠実と不誠実との区別まで捨て去る準備が彼女にできているだろうか?VohsとSchooler (2006) は自由意志に関する学説の表現が行動に及ぼす影響についての先駆的な研究の結果を発表した。ひとつめの実験において、被験者の1グループは、フランシス・クリックの 『DNAに魂はあるか 驚異の仮説*2 の中の「理性的で思考力のある人々 (例えば科学者) は長らく、自由意志とは人間の精神の副産物に過ぎないとして自由意志の概念を批判してきた」という一節を読むように渡された。この記述は自由意志の概念と、魔力的で二元論的な内なる選択者の概念とをスムーズに繋ぎ合わせていることに注目して欲しい。道徳や責任に関しては何も述べられていない。「理性的で思考力のある人々」が批判してきた唯一のものは「自由意志の概念」なのである。さて自由意志に関するどの概念なのだろう?統制グループは同じ本の別のトピックを読むように言い渡された。両グループの被験者たちはゲームを行うのだが、このゲームには不正を行うチャンスが設けられていた。実験に対する謝金を多く手に入れるためには、ルールを遵守するよりは不正を行ったほうが良い。そして、自由意志を否定した文を読んだグループは統制グループより有意に多く不正を行ったのだ。この結果はブラックモアの楽観を支持しない。Vohs と Schooler は更にバランスを取った実験をするほうがよい。つまり、科学が (今まで信じられてきたようなものではない) 自由意志の実在を証明したことを確信させる権威的な記述をひとつのグループに読ませるのである。僕が Schooler に提案した文は次のものだ。
 

*1:Susan Blackmore "The Meme Machine (Popular Science)" 邦訳スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私〈下〉』(垂水雄二訳)より一部改訳

*2:Crick, Fransis (1994) The Astonishing Hypothesis