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自由意志に関する二冊目の本で僕は、望むに値する様々な自由意志は、事実、カバンに詰まった自然の仕掛けから成り立っていて、それは遺伝的・文化的な進化によるものであることを示した。『自由は進化する』 (2003) によれば、自由意志を説明できるのは、進化生物学であり、(非決定論的な?) 物理学ではない (10億年前、地球上に自由意志は存在しなかったけれど、現在は存在する。物理は変化していない。何年にもわたって「意志」 can do は進化しなければならなかったのだ)。それでも、再び、伝統的で絶対主義的な自由意志を手放したくない人々が抵抗を示した。2つの書評を見て欲しい。
 

人々は、伝説における、リンゴを齧ったときのイヴのような自由を欲しがっている。つまり何をしようと完全に自由であるということだ。実際、イヴはあまりにも完全に自由だったために、神でさえも彼女がどの方向に踏み出すかを命令することは出来なかったのだ*1。(ジェリー・フォーダー)

 
言い換えれば、人々が望んでいるのは奇跡であり、ギャレン・ストローソン Galen Strawson (P.F. ストローソンの息子) が 2003 年の3 月 2 日付のニューヨークタイムズで述べたところによれば
 

絶対的な自由意志と道徳的責任を人々は信じたがっているし、信じているのである。

 
彼が続けて言うように、そのような奇跡的な類の自由意志は物理主義者には打ち立てられない。フォーダーもストローソンも絶対的な自由意志こそが人々の望むものであることを強調するし、僕も多くの人がそれを望んでいることについては同意しなければならない。けれども、人々にそれを望む資格があるということを、彼らはどうしてそんなに強く確信できるのだろう?もしかすると彼らは、自由意志の問題を解決するというよりは、むしろ神秘的で透かし見ることの出来ない衝い立ての向こうに問題を隠してしまう、もしくは、あいまいなままに問題を先延ばししてしまうような二元論の伝統によって、慰められているか、騙されているのではないだろうか。「これは誰かの思いつきにすぎない。科学の関わることじゃない。どうやって精神が真に自由な決定をもたらし、それを物質的な身体に埋め込むんだろう?尋ねないでくれ。言わないでくれ」。
 
自由意志は、物質主義、それも決定論的もしくは機械論的でさえあるような物質主義と本当に矛盾するのだろうか?この疑問はダーウィン自然淘汰による進化論を発表して以来付き纏ってきたものだ。進化論初期からの歯に衣着せぬ擁護によって「ダーウィンの番犬」と呼ばれたトマス・ヘンリー・ハクスレーは著名な作品 「動物は自動人形であるという仮説、そしてその歴史」 において、この恐ろしい疑問に正面から立ち向かい、陰鬱への先導者たちをなだめようとしている*2
 

過去の結論や後ろ盾となる古めいた教条に制約されておらず、ただ事態の真の結実を知りたいだけの、思慮深い人々の冷静な熟考に対し、私は少しばかり意見を述べたいと思う。我々は意識を持った自動人形であり、様々な面で我々は望むように出来る、という使い古された言葉の理解可能な意味においてのみ、我々は自由意志を授けられているのだ

 
もし投獄されていたり麻痺していたりするのでなければ選択したように振舞える、という意味で、僕たちは望むように出来る、とハクスレーは強く言う。けれども、僕たちは好きなように選択できるのだろうか?そしてついでに言えば、好きなように好きになることができるのだろうか?こういった補足なしでは、ハクスレーの請け合いは空疎に響く。進化が僕たちを助けてくれるのはまさにここなのだ。第二のデザインの波、文化進化が僕たちを救ってくれる。
 

*1:Jerry Fodor, London Review of Books, 5 March 2003

*2:Huxley, "On the Hypothesis that Animals are Automata, and Its History" Fortnightly Review, 16, pp550-80, David Chalmers 編による"Philosophy of Mind: Classical and Contemporary Readings", OUP, 2002, p30 より抜粋