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1984年に僕は自由意志に関する本 『Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (A Bradford Book)』 を上梓した。その中で僕は、こういった恐れはもっともではあるけれど、誤りであることを示そうとした。僕たちは望むべき価値のある、あらゆる自由意志を持つことが出来るのだ、と。哲学者たちは、僕たちが科学から得た物理的世界についての知識と実際に矛盾する何種類かの自由意志を定義しようと躍起になってきた。だけどこれらは無視しても構わないのは明らかだ。手の届かないところにある事実に思い煩って睡眠を削る必要なんてないのだ。この楽観的な結論のための考察は僕が思うにしっかりとした根拠のあるものだけれど、僕が完全に抑えきれていない二つの考えるべき点がある。ひとつめに、より詳細で自然主義的な意識の理論が必要だ。なぜなら多くの人々が、真の自由とは「無意識の目的というより意識的な目的という観点から見て理知的な」エージェントの振る舞いに拠っているものだ*1、という哲学者P・F・ストローソンの直感を共有しているからだ。ふたつめに僕が必要としているのは、自然選択による進化に関する、より根本的な説明だ。なぜなら僕は、洗練度の低い(それゆえ道徳的能力のない)エージェントから真に自由なエージェントを区別するデザイン作業を提示するにあたって、進化理論に依存しているからだ。
 
僕はこのギャップを『解明される意識』と『ダーウィンの危険な思想』とで埋めようとした。そして、この2つの本における妥協のない物質主義に対して加えられた批判に共通して見られる奇妙なパターンによって、僕は旨く軌道に乗っているという確信を強めることになった。まず、僕の批判者は「しかしこれについてはどうなのか…?」と、あれやこれやテクニカルな問題から始める。僕がそれをかわすと、今度は別の問題を持ち出す。そして時には3つ目、4つ目が持ち出される。しかし、テクニカルな反論に対してはっきりとした満足を与え終わると、結局、彼らは「わかった。しかし自由意志についてはどうなのか?」と尋ねるのだ。これこそが彼らの懐疑主義を最初から突き動かしている隠された動機なのだ。つまり、もし僕が言うように意識が物理的現象として説明可能で、意識やそれに関わる全ての能力がどのようにしてもたらされたかを進化が説明できたとしても、その結果として与えられる人類の見取り図には、僕たちに備わっていると信じたくてたまらない自由意志を与えてくれるような… うーん、そうだな、何というか… 魔法が十分じゃないんじゃないか、という疑念だ。僕はここでわざと「魔法」という言葉を使った。これはリー・シーゲル Lee Siegel によるインドのストリート・マジックについての優れた本 『Net of Magic: Wonders and Deceptions in India』 からインスパイアされたものだ。
 

魔法に関する本を書いているんだ、と私が説明すると、それって本当の魔法?と訪ねられる。本当の魔法という言葉で人々は奇跡や魔術や超自然的な力を意味する。私はノーと答える。「トリックを仕掛けることさ。本当の魔法じゃないよ」と。言い換えれば、本当の魔法とは実在しない魔法のことを指しているのであり、実在する魔法、実際に行われているものは本当の魔法ではないのだ。

 
もし意識がカバンに詰まったチンケな仕掛けで成り立つ現象として説明可能なら、それは本物ではない…これこそが意識についてのみんなの主張なのだ。確かにこの思いこみは余りに強力なので、僕が試みたことに関するこんなスタンダードなジョークさえある。「デネットは著書のタイトルを『釈明された意識』*2とすべきだった」。これは自由意志に関しても多くの人々が言うことで、僕はそれが偶然の一致ではないと確信している。だから僕は、意識に関する理論とデザイン・プロセスとしての自然淘汰の力に関するを武器に、再び自由意志の問題に取り組むことに決めたのだ。
 

*1:Strawson, P.F., 1962, "Freedom and Resentment," Proc. of the British Accademy p9-91; 『Elbow Room』p36-7

*2:「解明する」 explain と「言い逃れする」 explain away をかけている。