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「自由意志について考えること」の心理学

 
ダニエル・デネット

原文 (PDF) : Some observations on the psychology of thinking about free will
 
僕たちは自由意志を持っているのだろうか、いないのだろうか?自由意志に関わる問題はハードで、かつ重要だ。それは最もハードな知的問題であり、そしてそれがハードなのは僕たちが直面している知的問題の中でも、それが最も重要なものであるためだ。問題をかくも困難なものにしているのは、僕たちが暗黙に、無意識に、その重要性を認識していることなのだ。
 
僕が大学院生だった頃、重要な法的書類のサインを偽造するはめになったことがある。友人がクリスマス休暇で長期間オックスフォードを離れている間に、奨学金を代わりに受け取り預かっておくように頼まれたのだ。奨学機構当局は、学生のそのような旅行を防ぐために、直ちにサインして送り返すべき受領書を奨学金とともに送付するのである。当局は受領書の日付と消印と、そしてサインを確認する。もし受領書が届いたときにその場にいなかったことを説明できなければ、奨学金の支給は終了となる。南仏へ旅立つ前に、その友人はサインの例をいくつか僕に渡してくれ、僕はそれを完璧にこなせるようになるまで、何百回と紙に書き熱心に練習した。受領書が彼のアパートに届いたとき、僕は更に50回以上サインを練習した後、その生死に関わる書類を目の前に広げ、あろうことか、かつてないほどに不安定で疑わしいサインを書くことになった。手は震え、動悸は激しく、そのとき、犯罪を重ねる人生は僕に向いていないことを強く思い知ったのだった。幸いなことにお粗末なサインは奨学機構の観察者の精査を切り抜け、恐ろしい結果を僕は免れた。後遺症で不安に悩まされながら、僕はもっと良い方法があったことに気がついた。僕は妻に頼んで、サインすべき書類の束の中のどこかに受領書を紛れ込ませてしまえばよかったのだ。そうすれば僕はそれらの書類全部に猛烈な勢いでサインをし、どれが重要な唯一の書類なのかを知ることはなかったのだ (これは銃殺隊のライフル銃の多くを空っぽにすることで誰が銃殺に関わったのかを分からなくする古い発明だ)。
 
僕がこの困惑すべき過去のエピソードを思い出したのは、自由意志の問題となると本当に知的な人々の余りに多くがさてもひどい代物を書き散らしてしまうのは何故だろうか、という問題に最近直面したのがきっかけだ。僕の説明はこうだ。彼らは不完全ながらも、自由意志が重要な問題であることを正しく知っており、真実が耐え難いものであるときには、その意味するところを真っ直ぐに見つめることが出来ないのだ。これが希望的解釈と理性の歪みを避けられないものにしてしまう。もし、彼らの議論がタブーのない文脈に置かれれば、彼らは一瞬で真実を見抜くことができるはずだ。掛け金の高さが天文学的に思われるとき、人々は最善を尽くせないのだ。彼らのうちのいくらかは、次のようなかなりもっともな考え方に誘惑されるかもしれない。「自由意志が錯覚か実在かを考えているとき、僕たちは奈落を覗き込んでいるのだ。僕たちが直面していると思われるものはニヒリズムと絶望への転落なのだ。僕たちが生きるための全理性が危機にさらされている。どうしたらいいだろう?それが予想されるほど本当に重要であるなら、もしかすると最も道理にかなっているのはもっと多くの煙を吹きかけることかもしれない。とにかく、それについてはっきりさせないでくれ!余計な秘密を漏らさないでくれ(Don’t let the cat out of the bag)」。そして彼らは真実のために張られた煙幕を見つめることになるのだけれど、本当に重要な問題を誤って退けてしまうのだ。僕はここで、この誤った棄却について集中して述べたいと思う。