朝のリレー/24時のブルース①
先日、僕の友人がmixiにおいて、谷川俊太郎の「朝のリレー」を取り上げ、インターネット及び大量消費社会と絡めて論じていた*1。
きりんの夢を見ている時
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝返りをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
だれかがしっかりと受け止めた証拠なのだ
ミヤは指摘する。自らの詩が市場経済の中に組み込まれているものであるという自覚の中で、谷川は「誰かの生との繋がり」に心を躍らせている、と。更にミヤは言う。
孤独を発信することとは、孤独を「誰かに開いておくこと」、誰かが自分のことを考えているかもしれないと思い、遠く離れた誰かに対して自分を想像されるがままにすること*2だ。孤独の中で自分を開いておくこと、それによって僕らは、誰かに対し、いわば逆向きの軌跡を描いて、一本の曲線を引いていく。引かれていく。
僕が谷川のこの詩に初めて触れたのはネスカフェの新聞広告においてであるが、真っ先に連想したのはサニーデイ・サービスの「24時のブルース」だった。
サニーデイ・サービスが1998年に発表した大作『24時』のラストに収められた*38分を超えるこの曲は、彼らの折り返し地点だったと言えるだろう。
サニーデイ・サービスは幻想としての青春を歌い上げるバンドであった。歴史的に既に終焉した幻想である「青春」を蘇らせるために彼らが当初用いたのは70年代日本のモチーフである。レトロな詩情と咲き乱れる桜のジャケットに包まれた初期の作品たちはグランジ・ブームの後にそよぐ春風のような暖かみに満ちていた。しかし、それと同時に幻想を継ぎ接ぎして歌っているがゆえのもの哀しさも持ち合わせていた。彼らの手法は、その外観とは裏腹に極めてポスト・モダンなものであった。
しかし彼らの生の躍動が、やがて、その暖かなオブラートを突き破り始める。情熱と苛立ちが次第に首をもたげ、ギターの音を歪ませる。そんな激しい嵐のようなアルバムが『24時』であった。
朝のリレー/24時のブルース②に続く