テクノ・ミュージックと記憶


Exhibitionist

Jeff Mills*1のExhibitionsitを渋谷の街を歩きながら聴く。意味がそこらじゅうに飽和し、吐き気を催すような街で、意味への安易な頽落を拒否する硬質な音が心地よい。ミニマルなループが呼び起こすのは感情以前の神経のざわめきである。
   
テクノ・ミュージックの批評は難しい。クラシックやポップスならば、旋律、和声進行、歌詞などを、その俎上に載せれば通り一遍の批評文は完成する。しかしテクノはそうはいかない。なぜなら電子音の集積は明確な参照項を持たないからである。
       
ポップスにせよジャズにせよクラシックにせよ、近代以降の西洋文化圏の音楽は、ほとんどの場合、何かを表象している。音楽の外側の世界との繋がりを前提としているのである。リズムでさえ表現のための手段だ。こういった音楽がリスナーに呼び起こすのは、甘く切ない感情であったり、いつかのあの場面であったり、歌詞への共感であったり。
こういった心の動きと言うのは、自らに十分に知覚されうるものだし、それをさらに嘗め回してうっとりしたり、昂ぶったりするのが、正しい音楽の使用法だ。これらは記憶へのアクセスを前提として成り立っているのである。
       
ところで心理学において記憶は大きく2分して扱われる。宣言的記憶と非宣言的記憶である。宣言的記憶とは言葉にして表すことのできる記憶である。例えば、「あの時、彼は激高して怒鳴り散らした」だとか。一方、非宣言的記憶とは、自転車の乗り方のような、言葉にすることのできない記憶である。 (しかし後者を「記憶」と呼ぶこと自体に僕は違和感を覚える。意識的にアクセスすることのできない過去からの山積物を「記憶」に含めていくと、学習によって生じるあらゆる神経ネットワークを記憶と呼ばなければならないからである。こうなってくると日常的な用語法からの乖離が生じる。)
 
話がだいぶ逸れたのだが、僕が言いたいのは、ポップスなどが宣言的記憶を揺さぶる性質を持つ(結果として非宣言的記憶に働きかけることはある)のに対し、テクノは直に非宣言的記憶へ働きかけてくる、ということである。テクノが刺激しているものが何かを自覚することは非常に難しいし、刺激されていること自体が知覚されにくい。しかしサブリミナルな刺激として聴くものに必ず何らかの影響を及ぼす。それは、何からかの対象への心の動きではなく、まさに自らそのものに対する状態をかき乱すのである。再帰的なダイナミズム。それを不安と恍惚と呼んでもよい。

*1:http://www.axisrecords.com/jp/ 彼は現在来日中で、渋谷のWOMBで未知との遭遇をテーマにしたContactというイベントを毎週末に行っている。僕は来週末行きます!