原田郁子『ピアノ』

         ピアノ
易しい、優しい、言葉とメロディー。
言葉と音と無邪気に戯れる、そんな喜びが詰まった文句なしの名盤。
去年の夏、日本神経科学学会開催中に通った大阪・阿波座のカフェMartha (とても居心地が良くて、料理もコーヒーもおいしいのでお薦めです) でふいに流れてきた「たのしそう かなしそう」。イントロのピアノが流れ出した瞬間、午後のまどろんだ店内の空気に、柔らかな色彩と躍動感が満ちていった感じを今でも思い出す。
 
デビュー以来、良質かつ挑戦的な作品を生み出し続け、今では日本の音楽シーンに欠かせないトリオ・バンド、クラムボン。キーボード&ボーカルを担当する原田郁子の初ソロ・アルバムは、裸になったクラムボンといった感じ。Clammbon Naked。クラムボン初期の可愛いポップミュージックから更に外皮を剥いて、しばらく陽のあたる野原に広げたら、こんなにシンプルで柔らかな音になるのだろう。セロニアス・モンク矢野顕子を好きなミュージシャンに挙げる彼女だけあって、タイトル通りピアノの音が主役のアルバムだ。
 
参加したミュージシャンにはPolarisオオヤユウスケSuper Butter Dog/ハナレグミ永積タカシLosaliosのTOKIEなど、こちらもJ-POPの良心大集合といったラインナップ。
そしてシンプルなようでいて、非常に音作りにも手が込んでいる。ピアノが奏でる音の空間的な広がりが、高質かつ暖かく封じ込められている。イントロだけで店内の空気を変えてしまったのは、この音作りの良さによるところが大きい。日本の誇る名エンジニア、ZAKも2曲を手掛けている。
また、バンドでは堀口大學の詩を取り上げるといった、日本文学に対する冴えた感覚も相変わらずで(そういえばクラムボンというバンド名が体を表していたのだ)、名作『麦ふみクーツェ』などを著した作家・いしいしんじを2曲の作詞で迎えている。#3「かじき釣り」は楽く歌える童謡の傑作だ。
 
僕は彼女の音楽を、初期のスピッツフィッシュマンズらと並んで「あくび系」とでも名付けてみた。半径1メートルの世界を慈しみ、それに充足し、やさしく肯定する。1メートルの円の外の景色は彼らの世界の書き割りで、直接彼らに危害をもたらすことはない。優しく寂しい幻想に過ぎないとはいえ、いやだからこそ、そういった音楽は必要なのだ。あくびがもたらす効用のように。

ふいに となりのひとを あぁ 近くに感じたの
まるで 流れ星を あぁ 見てるみたい
                                流れ星/原田郁子

易しい言葉は、外面を装うことが出来ない。裸のままの心が吐き出されてしまう。それが心地よくて僕はどの曲にも無防備に耳を傾けるのだが、どきりとするフレーズが一つある。上に挙げた詞と同じ「流れ星」という曲の中の言葉だ。

この空の先には にくみあって
殺しあう人がいるんだって
ほんとに? ほんとに ほんとに?
ニュースは見すぎちゃいけないね
                                流れ星/原田郁子

「にくみあって殺しあう人がいる」。
あくびの世界に、ふいに闖入してくる物騒な語彙。一瞬、耳を塞ぎたくなる。半径1メートルの世界を乱さないで欲しい。ふたりきりの平和がいつまでも続いて欲しい。そして原田も現実の醜い残酷な世界から目を逸らすかのように「ニュースを見すぎちゃいけない」と歌う。そう、目を塞いでしまえば、穏やかな世界はいつまでも継続する。遠くの誰かが、憎み合い殺し合っていても。
さて、このフレーズは、原田のストレートな心情を反映しているのだろうか?易しい言葉がゆえに、彼女の世界に対する欺瞞が表れてしまった、というわけだ。
それとも、原田は意図的に、明らかに欺瞞と思われる思想を詞に埋め込んでみたのだろうか?「あくび系」ファン(俺か!)の幻想を打ち砕き、現実に目を向けさせるために。
後者の解釈を採るのは、このアルバム全体の空気からしても、少々難しいように思われる。あくまでこのアルバムは「あくび系」への愛に満ちた作品なのだから。
だが、ここで原田の意図を議論することには意味がない。ともかく、僕がこの詞から汲み上げたのは、 「となりのひと」 と 「流れ星」 の間に確かに存在する、「にくみあって殺しあう人」をどれだけ 「近くに感じ」 られるか、という深刻な問題だった。この問題を顕在化してくれるだけで、「流れ星」は僕にとって価値のある曲なのだ。

最後になったけれど、CDジャケットや、ジャケット内の写真で原田郁子の着ているワンピースのテキスタイル・デザインがとてもよい!spoken words projectのデザイン。