久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ@みなとみらいホール (2005/12/5)

まさかはてなダイアリーにおける最初のライブコンサート評が久石譲になろうとは。イベンターさんの繋がりで招待券貰ってのこのこ聴きに行きました。タダなら行かねば。コンサートと名のつくものは久方ぶりである(会場内でビールを飲めないのは苦痛であった)。
僕は、久石譲の音楽の良いリスナーでは全くない。映画と共にある音楽。ただそういった認識である*1。それでも幼い頃から触れてきたジブリ映画を通して久石メロディーは充分身体に浸透しきっている。この国の20代前後の人間には、久石メロディーといものは好き嫌いを抜きにして、童謡の様に、もうすっかり音楽の前提なのではないだろうか。細胞記憶*2とでも言っていいような。荒々しい青さが売りのロック・バンド、THE BACK HORNの曲中にも、『魔女の宅急便』のサントラのメロディーがそっくりそのまま、ふいと顔を出してしまう。所謂「パクリ」、ではない(と思う)。久石譲はそういった存在なのである。
そういうわけで、全く予備知識もなく、しかし、全く不安も覚えず、クリスマスムード一色のクイーンズ・スクエアを抜けて会場に向かった。
久石譲、その名がクイーンシー・ジョーンズにちなんでつけられたものである(わらい)、と聞き及んでいたが、ジブリ北野武の映画音楽を聴いている限りでは繋がりがいまいち攫めなかった。しかし、今回のコンサートですとんと腑に落ちるものがあった。
久石譲自ら音楽監督を務める新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラを率いて登場。新日本フィルのこの新部門はクラシック・ポップスのジャンルを越えた活動を目指して発足したもの。セットリスト(って言うのか?クラシック系の語彙不足・・・)には宮崎駿北野武映画の曲は一切なし*3。ほとんどがフランス映画およびミュージカルからの曲である。この選曲が効を奏した。映画監督が久石譲に求め、そしてまた観客たちも求める「トトロ」や「ナウシカ」では、聴衆と音との、そして久石譲と音との新たな出会いが殺されてしまう。
久石譲がシンフォニック・ジャズの音の中でここまで活き活きとしてしてくるとは、とても嬉しい発見だった。シンフォニック・ジャズの流れの中に久石譲を位置づけると、彼の多忙な活躍ぶりとショウビズへの接近度は、クインシー・ジョーンズの名に相応しいものとして実に納得できる。曲によってはR&B/ジャズシンガーのレディ・キムやコーラス隊を迎えての音の贅の限りを尽くした演出。
みなとみらいホールの2Fはバルコニー席がステージの裏側まで取り囲むようになっていて、僕の席は言わばバックネット裏といったところ。オーケストラの背中を見つめる形になる。音響はこもりがちで極めて悪く、弦の音はブラスに完全に負けてしまうのだが、指揮者を正面から見ることができる。つまり久石譲の表情、挙動を明瞭に追うことができる。そして、確かに音響は悪いのだが、ジャズバンド(ドラムセット、ウッドベース)はオーケストラ隊の後ろに位置するので、一番音が届きやすい。かねてより(ベーシストとして)バンドとオーケストラとの音の融和に興味があった僕にとっては、とても面白く聴くことができた。オーケストラのこれだけの音圧の中で、峻厳と底を支えるには相当のテクニックを要するのだと感じた。ドラムスという楽器の強さ(完全に場を支配する!)も際立っていた。
演曲のベストは久石譲の編曲による「白い恋人」か。集団で音を奏でるときに訪れる最高の瞬間 ―他の奏者の一音一音を自分が全て把握し、まるで操り操られているかのような感覚― をここまで持続させるとは。クライマックスに向けて弦楽器の弓の動きまでが完全に脳内で理解/包含comprehendされるという初めての経験をすることができた。
ジョージ・ガーシュインの「パリのアメリカ人」を開演導入曲に続き2曲目に演奏し、最後はモーリス・ラヴェルによる1928年のミニマル・ミュージックボレロ」で締める*4ガーシュインラヴェルの交流を押さえての選曲か。ガーシュインはパリに出向き、ラヴェルにクラシックの教えを請うたのだが、「あなたは一流のガーシュインなのだから二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と断られたという*5。もちろんこれは互いの音楽に対する尊敬があってのことである。
今回のコンサートは映画/シンフォニック・ジャズ/ミニマル・ミュージックという彼のキーワードが有機的に絡み合った構成になっている。そして、それらを繋ぐ円環が2曲目のガーシュインと最後のラヴェルによって完成するのである(1曲目は久石作曲の新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラのテーマ)。
二流のクインシー・ジョーンズならぬ、まさに「一流の久石譲」を全編に渡って堪能させてもらった。
  
最後に、自腹では決して聴きに行くはずのなかったコンサートに行く機会をくれたIさんに感謝(驚)!

*1:久石さんはMC(笑)で、最近の映画音楽はメロディーが弱い。映像に寄り添った無機質なものになっている、といったことをおっしゃっていました。そういう意味では久石譲の音楽は近年の映画音楽の中ではかなり主張が強く、いい意味で映像と音楽が共に生きているものだと思います。でも僕は映像に溶け込んだ無機質な映画音楽も好きです。それこそバスター・キートン無声映画Jeff Millsが付けたサウンドトラック『The Three AgesThe Three Agesとか。無機質なサウンドでも音楽が死んでいるかと言うと、そうではないですよね。

*2:あながち非科学的なものでもなく、エピジェネティクスと呼ばれる「細胞記憶」の研究は生命科学の最先端である。夢野久作ドグラ・マグラ (現代教養文庫 884 夢野久作傑作選 4)』も「細胞記憶」を扱っていたが、「脳髄は物を考えるところに非ず」という至言も含め、彼の人間学/生物学的先見性には驚かされる(夢野久作の文脈では細胞質遺伝という分野がより相応しいのかも知れないけれど)。高校生の頃読んだきりである。そろそろ再読しよう。エピジェネティクスについてはこちらがわかりやすい。生命誌ジャーナル 2005年秋号「細胞記憶を支えるクロマチン」

*3:どうやらアンコール最後の曲は、僕が未見の『ハウルの動く城』からの選曲だったらしい?

*4:初期の久石譲はミニマル・ミュージックに傾倒しており、コンサートでもしばしその手法を用いていることは聞いていた。今回の「ボレロ」でもスネアが背を向けているためよく見えず、最初はリズムボックスを用いているのかと勘違いした(でも、これいいアイディアじゃありませんか?)。

*5:この時のことを描いたのが「パリのアメリカ人」である。