のび太の服の肩の皺に注目したい気分。

一昨日の進化論的文学批評に関する記事に、文学を専門とするid:Lisbon22さんからコメントを戴きましたのでこちらに再掲させていただきます。


実は最近文学研究の中でデータ解析みたいな手法を用いる人が少しずつ増えてます。もちろん彼*1みたいに「世界中の民俗学のデータベースを解析…」なんてやっていると今の世の中地獄に落ちるので、メインとなる手法は一人の作家の全著作についてデータベース化して解析すること。この主な目的は、これまで感覚的にしか論じられてこなかった(レファレントを持たなかった)「文体」を関数化すること。これによって、「初期太宰は五つの文に一つの割合で「…た」で終わる。これは驚くべきことに○○の文体と似ているのだ!」みたいなことを数字で言い表すことが出来、それらを相互参照することで例えばリチャード・ブローティガン東野圭吾を比べるといったような「新しい比較文学」の可能性が生まれる、というわけ。
そのダサさと無意味さがかなり面白いんですが、おどろくべきことにこの手法、学会では意外と(少なくともフェミニズムクィアなどの政治的読解より)人気なんですね(特にジジイに)。

ええ、最後の悪態ははさらりと流すとして(笑)、これに関連して手元に面白い研究例があるのでご紹介します。
山内光哉『心理・教育のための統計法』(1998)から孫引きになってしまうのですが・・・。
 
源氏物語は、最初の44帖と最後の10帖(宇治10帖)では文体が微妙に異なっていて、紫式部の何らかの境遇・心境の変化があったのではないか、だとか、作者が別なのではないか、といった意見があります。そこで統計数理研究所の村上征勝教授は、源氏物語全編54帖に渡って使用されている品詞を分類し、データ分析を行いました。
その結果、やはり前帖と後帖とで文体の差が見られ、例えば前帖は後帖に比べ名詞の出現率が高く、助動詞の出現率が低い、といった傾向が明らかになりました。
ここで面白いのが、各パラメータを顔の特徴として視覚的に分かりやすく表す「顔グラフ」というものです。例えば「助詞の使用率が大きいほど目の位置は高く」だとか「動詞の使用率が大きいほど口の長さが長く」といった感じです。人間は、顔の特徴判断に非常に優れているので、多変数のデータの傾向をぱっと見で掴むにはいい方法かもしれません*2
この研究結果で示された顔グラフを僕が見る限りでは、前帖と後帖とにはっきりと二分されるというよりは、帖ごとに文体のばらつきの大きい前帖に比べ、後帖は10帖に渡って文体が均一な構造であることを示しているように見えます(後帖は面長で目の位置が高く眉が釣り上がり目は右を向く)。
興味深いのは後帖のこの特徴が前帖の一部でも見られることです。「夕顔」や「若紫」の帖の顔の特徴は後帖のものとほとんど区別がつきません。
僕なりの解釈を述べさせていただければ、前半は紫式部の文体が安定せず、後半になってようやく紫式部節が確立された、といった感じではないでしょうか。長く活躍されている漫画家の絵などを見ても初期はキャラクターの造形などがかなり移ろっている印象を受けることがあります。しかしある程度の年を経ると、その人のオリジナルの「筆体」が完全に定まり揺らぎが見られなくなります(解りやすい例を紹介できるのですが、マニアック過ぎるのでやめておきましょう)。また、後年昔の著作を再出版する際には、手直しがされることが多く、マニアからすると「お、ここ描き換えたな」というのが一目瞭然だったりするのです。おそらく「夕顔」や「若紫」も後年の紫式部によって手直しがされたのではないでしょうか。なんといっても源氏物語の中でもかなりの見せ場ですからね。
ただ、こういった統計的文学研究と文学批評との境界というのは、やはり、慎重に意識する必要はあると思いますね(越境するなと言っているのではない)。データを客観的に扱うのはいいとして、批評とはそこから一歩を踏み込む作業なのではないかと思います。というか、そうであってほしいという。
 
 
ゴータマ・ブッダ考
 
 
 
 
 
 
 
 
それから、こういった統計的文学研究と直接の関連はないのですが、テクストを実証的に取り扱う研究として、今週の朝日新聞の書評宮崎哲弥氏が紹介されていた並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』も是非読んでみたいと思いました。宮崎氏によれば、

本書には、文献学という世界の面白さ、楽しさが詰まっている。それはまるで考古学や探偵小説を思わせる。

著者は、まず先学に倣って初期仏典の韻文経典を最古層と古層とに分類し、それらに徹底的な批判を加え、最古層から古層への記述の変化の流れを検出する。

そして、その流れの方向性を逆に辿(たど)ることで、最古層以前の「歴史的ブッダ」の説いた思想が推定できるというのだ。

これはとても妥当な方法だ。昨今の啓蒙(けいもう)書のなかには、仏典成立時期の目安となる韻文、散文の区別を無視し、語形の変化もお構いなしに、悉(ことごと)くブッダの真説とみなす、まったく乱暴な説述が見受けられる。対照的に、本書の視座は客観的であり、実証性に富む。
(中略)
では、ブッダは輪廻(りんね)をどう捉(とら)えていたか。古層の経典では、確かに輪廻は業報(ごうほう)と結びつけられ、積極的に説かれる。だが著者は文献を精査し、最古層の経典には輪廻(サムサーラ)という語は見出(みいだ)せず、「来世」や「再生」などの表現はみえるものの、いずれも否定的な文脈に限られている事実を突き止める。ブッダ自身の輪廻観は飽(あ)くまで否定的であったと推すことができるのだ。「無我なのにどうして輪廻という生死を超えた我の存続を認めるのか」との疑問が氷解するとともに、当時から流布していた輪廻という観念の因襲を、無我の思想を立てて解体しようとしたブッダの姿を、本書は見せてくれる。

とのこと。おお、スリリングな面白さがありますね。語られていないものに如何に接近するか、というのは文学批評に共通する問題意識だと思います。この本の「ブッダは輪廻を否定していたのではないか」という説は僕の仏教観にも大きな影響をもたらしそうです。
 
 
天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)
 
 
 
 
 
 
 
こういった新たな知見を元に三島由紀夫の「豊饒の海」四部作も読み直してみたいものです。「豊饒の海」では唯識論哲学に基づいた仏教の語彙で輪廻転生が語られるのですが、唯識説に関しても相当のアレンジが加えられているらしく、きちんと仏教を学びなおした後で再挑戦してみたいと思います。浅見では唯識の衣をまとったロマネスクなんだろうとは思うのですが。
 
最後になりますが、実証的な文献研究にもこんな(↓)悪質なテクストが紛れ込む可能性もありますので注意しましょう(笑)。「文体」は酷似しておりますが、別物です。
 
神罰―田中圭一最低漫画全集 (Cue comics) 
  
 
 
 
 
 

*1:注:文学的ダーウィニスト Jonathan Gottschall

*2:顔グラフの作成法に関しては、脇本和昌ら『パソコン統計解析ハンドブック〈6 グラフィックス編〉』(1992)を参照とのこと