この雨にやられてエンジンいかれちまった。

どうしてこの季節にこんな酷い雨が降るのか分からない。
世界は理解不能で納得のいかないことに溢れていて、それでも、どうにか折り合いを付けて生き延びていくしかないのだ。
 
僕が夜中まで1日のほとんどを過ごす研究室はキャンパスの端にあって、大学の傍に位置する私鉄の駅へと向かうには、ろくな舗装もされていない暗くてうらぶれた小路を下り、敷地の西南の隅にある小さな門を通らなければならない。この門は自動車やバイクの侵入を防ぐために、いつでも門扉は30度くらいの半開きで固定されており、人一人が通るにも体を斜めにしなければならないのだ。
たった今使った「小さな門を通らなければならない」という表現は明らかに誇張で、僕にだってもちろん、キャンパス南正面のブロックの敷かれた広場に屹立する広くて堅牢で威厳に満ちた正門を使用する権利は与えられているのだけれど、あまりに回り道過ぎるし、毎日小さな門を使っているうちに、立派な正門の存在なんて意識にも上らなくなり、この通用門だけが僕に許された道となり、もはや何の疑問もなく足は自然と爪先を南西へ向けるようになったのだった。
時計は夜の十一時半を回り終電の時間が迫っていた。傘などほとんど役に立たないような横殴りの雨の中を、僕は南西ヘ向かって駆け抜けた。「どうしてこんな季節に。理解できない。」走りながら僕は呟く。雨のせいなのか、いきれのせいなのか、眼鏡が曇る。
やがて霞む視界の先に小さな門が姿を現し、その向こうの駅の明かりがぼんやりと見えた。これならなんとか電車に間に合う。ほっと胸をなでおろしながら、薄っぺらい門の隙間に身体を滑り込ませようとしたその瞬間、僕は固まった。
門の周囲一面が泥水に埋もれていたのだった。
キャンパス一帯に降り注いだ豪雨は谷に沿った小道を川となって流れ傾斜曲線の極小点に当たる通用門へと怒涛のように押し寄せ、鉄の扉を飲み込んで20cmの深さとなった泥の海が渦を巻いていた*1。叩きつけるような雨音の遠くから、電車の音が近づいてくる。この電車を逃したら、帰れない。
躊躇っている時間はなかった。僕は身体をよじり、飛び降りるような気分で、扉と扉の間の狭小な空間を目掛け右足を投げ入れた。泥の中に深く沈み込んでいく白いアディダス。もう一歩。泥の海は広大だ。左足も泥に飲み込まれていく。そしてもう一歩。不安定な足場から投げ出された右足は遂にアスファルトに直に接地する。僕はとどまらない。そのまま泥も何もかも振り切るようにして走る。駅の構内を駆け抜け、階段を上り、発車のベルが鳴り止む瞬間に電車に駆け込む。間に合った。
 
サラリーマン達で込み合った終電車は真っ黒な多摩川を越えて走る。振動に身を任せ、ぐちょぐちょになった両足の不快感を噛み締めながら、考える。
僕は誰からも強制されることなく、キャンパス南西の小道を下り、小さな通用門を目指した。そしてあの泥の海へ足を踏み入れたのも、間違いなく僕の意思に基いた行動だった。全て僕が責任を負うべき事態だ。これから先、僕の目の前にはいくつもの泥の海が現れるだろう。勿論躊躇いは許されない。その度に僕は、やはり、自分の意思で、泥にまみれながら前に進んでいかなければならないのだ。誇り高く。
こんな腹の足しにもならないような未熟な呟きを抱えて、僕は地元の駅に降り立った。
 
嘘のようだった。
雨はすっかり上がっていた。
呆然とした僕を生ぬるい春の風が吹き抜けていく。ネオンを反射して水溜りが輝いていた。
 
世界は理解不能で納得のいかないことに溢れていて、それでも、どうにか折り合いを付けて生き延びていくしかない。
僕は泥まみれになったスニーカーを軽やかに弾ませ、「雨上がりの夜空に」を歌いながら家へと続く坂道を登った。こんな夜にお前に会えないなんて。

*1:深すぎ?10cmくらいかも。まあ僕のその時の心理尺度ということで。