認識の病

 
因果関係 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3より
 
「しかられないと勉強しない」という命題は真なのにその対偶の(と一見思われる)「勉強するとしかられる」は偽であるのはどうしてか、という問題。出展がなかったからはっきりしないのですが、そういう意味でいいんですよね?暇人なので図に描いて整理してみました。
 
まず日本語の「と」という助詞は①「時間の流れ」(図中の青緑の矢印)と②「論理的包含関係」(図でいう赤い矢印)の両方の意味を含む。そして日本語は時間の流れに沿って文を繋ぐときには、特に時制で前後の区別が行われない。だけど含意としては「しかられない」は相対的に過去(青色)で、「勉強しない」は相対的に未来(緑色)の事象だ。
 
しかられないと勉強しない
 
元の命題の対偶を取るための操作のひとつとして、命題を逆にする必要があるわけだけれど、この時「と」に含まれる二つの意味に気付かずに操作を行ってしまうと、②もろとも①の時間の関係までひっくり返ってしまう。その結果が「勉強するとしかられる」というおかしな文だ。
本当は、命題の逆をとるときは②の赤い矢印だけいじるべきで、①の青緑の矢印はいじってはいけない。時間的関係は保存されなければならないのだ。ということは、対偶の命題を述べるときは、きちんと時間の前後関係に注意して、すなわち事象が緑色か青色かに注意して、言語化しなければならない。だから実際の対偶は「勉強するのはしかられたからだ」、「勉強するということはしかられた」となる*1。これはもちろん元の命題と同様に真。
 
僕はネイティヴでないのでif節の中の時制とか仮定法とか考えると頭が痛くなるのだけれど、同じ問題は英語でも生じるのだろうか?生じないような気がする。いずれにせよ形式論理を日常言語に適用するには充分慎重になる必要がある。
というかnucさんが一蹴した問題に時間を割いている僕が馬鹿なんだろうか。

*1:もっとくだけて言うと「勉強しているのはしかられたからだ」、「勉強しているということはしかられた」なんだけど、「〜している」というのは元の命題にはない「アスペクト」の要素が入ってしまうから避けたほうがいいのかもしれない