村瀬学『自閉症―これまでの見解に異議あり! (ちくま新書)』





久しぶりに興奮した新書。
専門の関係で自閉症を扱った脳科学論文はちょくちょく目にする。結構流行っているような気がする。自閉症研究への予算投入は増加しているらしい。それから心理学のほうでも、「心の理論の欠如」だとか「超システム化傾向」だとか、色々な話を聞く。けれどもそういった論文を読んでも、当然、全く自閉症の人たちのことはわからない。
自閉症」と「健常者」との間には断絶はなく、「自閉症スペクトラム」という連続的な概念の中でそれぞれの症例を扱ったほうがいい、という考え方は臨床心理の授業で教わる。けれども黒板を前にしての授業では、やはり、自閉症の「症状」(=「健常者」との差異)が列挙されていくばかりで、そもそも自閉症者がどのように世界を見ているのか、という本質的なところまでは掴みきれない。結局、「スペクトラム」という用語を導入しても、その連続体の端と端に「完全なる自閉症」と「完全なる健常者」を配置して座標の上に個々の症例を位置づけていく作業に終始してしまえば、観察者・研究者と自閉症者との間の大河は渡れない。他者がどのように世界を見ているのか、なんて、そもそも、完全にはわからないけれども、最初から彼岸において眺めてしまっては、可能性自体を放棄することになる。
 

自閉症の謎」などとして不思議がられてきたものは、その原因を、訳の判らない「脳障害」や「知覚・言語・認知障害」などに求めて特別視しなくても、身近な自分たちの「記憶」の現象を突き詰めるだけでも、私たち自身のもつ「謎」と共通しているものであることが理解してもらえるはずだと私は思う。

 
著者・村瀬学は、自分の存在のしかたとクロスさせる視点を持たずに、自分とは全く別の存在者として「自閉症」を論じるあり方は、自閉症研究者の「症状」である、と指摘し、熊谷高幸『自閉症からのメッセ-ジ (講談社現代新書)』を批判する。
自閉症を「くらし」の中に位置づけてみれば、自閉症の数々の「症状」は、人間の心のメカニズムの現れ方の一つであることがわかるというのが村瀬の主張だ。例えば、自閉症者の「症状」として、規則性や配列への執着といった行動が挙げられるが、これも一面的な見方に過ぎない。そもそも人間は流動的な世界の中でなんとかして安定を得るために、自然の中から様々な規則や配列を見出し、作り出してきたのである。「カレンダー」や「地図」といった文化は、人間の安定性への希求と規則を見出す努力とが結晶したものである。
 

こうした「カレンダー」に関心を寄せることが「自閉症児」の「病気」の「症状」のように見られていったことは「自閉症児」の側の問題ではなく、医師や研究者の方に、「暦」のもつ意味についての深い関心がなかったことにより起こってきた出来事ではなかったかという指摘である。
もし医師や研究者の間に「暦」についての深い関心があったなら、「自閉症児」がなぜ「カレンダー」に関心を持つのか、その人類史的な意味にもっと共感を持って接してもらえたのではなかったかと思うし、その結果「自閉症」と呼ばれてきた子どもの学問的な位置づけの仕方ももっと違ったものになっていたのではないかと私には思われるからである。

 

カレンダー覚えが「一般的な記憶力の範囲」をはるかに越えるという理解も苦笑である。なぜなら「カレンダー」と呼ばれる物自体が、人類の生み出した偉大な「記憶術」の一形態であったわけで、そういう「カレンダー」という存在そのものすら著者*1は一度たりとも考察していないのである。彼らは、その人類史が獲得してきた記憶術をさらに徹底させる術を身に着けているだけであった。

 
自閉症児のカレンダー覚えの場面に関しては、杉澪子『ママ ぼくカレンダー人間だって ある自閉児の記録 4』が引用されている。ここではカレンダーに興味を持ち、それから4日ほどで、完全にその規則性を把握し、未来や過去の曜日をぴたりと当てるようになるまでの経過が描かれている。
また、地図・線路に対する強い興味(これも配列への興味である)に関しては、著者が心身障害児施設職員であったころの体験記が具体例として挙げられている。そこでは、ある自閉症児の日曜日の慣例となった日帰りピクニックに付き添ったときの、大阪から須磨への長距離移動の様子が詳細に綴られている。
これらの実例を読んで強く伝わってくるのは、自閉症児が周囲の事物に規則性・配列を見出し、それをきっかけに世界を把握していく時の興奮と喜びである。そして、それらは、僕が数学や物理を学ぶときに感じる興奮や、旅を通じて自分の中の世界地図が少しづつ拡張されていく喜びとも、強く、繋がっている。
もちろん自閉症においては日常に支障をきたす執着的な行動が見られることがあるのだけれど、それは「症状」というよりも、「複雑に変化する周囲の世界に対して、自分なりのやり方で変化するものの予想を立てて生きていこうとする」奮闘のあらわれなのだ。そして、自閉症者の奮闘に目を向けると、反射するようにして、自分自身が幼い時からこの世界の中に安定を得ようとして様々な努力を積み重ねてきたこと、そしてその奮闘は今だって続いていることに気がつく。それがカレンダーだとか地図だとか、今では半分、当然の存在のように思っている先人の知恵によって、支えられてきたことにも気がつく。もちろん、「健常者」の場合、他者とのコミュニケーションによって世界への参入が助けられ、人と人との関係性の中にもルールを発見し、そこに安定を得る。それに対し自閉症者は他者との関係の中に規則・配列を見い出すことができず、自分自身で安定を築いていかなければならないというハンディがある。結局、自閉症の中核はここにある、というのが著者の主張だ。
この後いくつかの文献を引用しながら、「自閉症」という概念が国家や医療界の要請の中で形成されていった歴史や、「浅草レッサーパンダ事件」の裁判における「自閉症」の扱いなどが論じられているが、ページ数の問題もあって、充分な議論が尽されているようには感じない。これらの論点に関してはそれぞれの引用文献に直接あたったほうがいいように思う。
「くらし」の中から自閉症を見つめなおすことで、人間の心や文化に関する根源的な洞察を導き出し、そこから再び自閉症を「くらし」の中で受容していく方向を見出していくこと。それが著者の主張の根幹だと思う。
 
脳科学に携わるものとしては、もちろん、自閉症における脳の働きを調べること自体が無意味だとは思わないけれど、本書のような地に足のついた視点を見失った、研究のための研究では、その成果の有意義な還元は難しいのではないかと感じました。id:deepbluedragonさんのご指摘どおり、曖昧な文なので、以下のコメントをお読みください。

*1:註:熊谷高幸氏