いつか誰もが返事じゃない言葉を喋りだすのなら

なかなか新しい記事を書く気力が湧かないのですが、友人のブログ (Being Kind to Someone - THINGS BEGIN) から考えたことを。友人が触れているのは僕も先月行ってきたナム・ジュン・パイク展についてです。

ブラウン管の中から生えた蔦、あるいはぼうっとテレビの中から照らし出す蝋燭、あるいはブラウン管と我々の眼の間に置かれた水槽の向こう側に見えるパイクの(テクノロジーに、あるいは我々に向けられる)眼差しは、ひどく優しい。
 
テクノロジーに対して驚くほど楽観的(肯定的)なこうしたパイクのスタンスは、けれど、「テクノロジーによって我々は結ばれている」ということを示すのか、あるいは「テクノロジーは(実は既に)我々が結ばれていることを示しだす」と言っているのかが今ひとつはっきりしない。それが顕著に現れるのが木々の間にテレビが生っている「ケージの森」(ジョン・ケージjへのトリビュートであると同時に「木の啓示」の意)で、たぶん僕達の生きるこの世界ではテクノロジーは既にgivenであり、そのレベルで社会的なものと技術的なものはもう分けて考えることなんて出来ないんだろう。
 
(とは言えふっとだけ気になったのが、ひょっとしたら彼の作品が表象する「結ばれた世界」というのは、個々の主体が選択できないような形で既に誰かに「結ばれてしまっている社会」なのかもしれない、ということだ。
 
そしてそれは単純にいいものといえないようなものである気もするのだ)

ナム・ジュン・パイクが焦点を当てるのは主に20世紀の映像テクノロジーですけれど、実は、近代に限らず、技術・道具の使用というのは、過去の認識的行為を引き継いで行われるものですよね。技術・道具には先人たちの知的成果が織り込まれており、過去に達成された知性を使用者に授ける「潜在的知性」である、ということをグレゴリーという心理学者は言っています。例えばハサミの存在する環境に生活する人々は、そのような環境に生きていることからして、ハサミを実際に使用するかしないかに拘わらず、紙や布をまっすぐに切断する能力を潜在的に持っているということです。技術や道具の使用は、それを発明した先人と共同作用を行うことなのです。人間はそのように構造化された環境の中で行動することで、既に誰かに「結ばれてしまっている」のだと思います。
そこではもちろん GIVEN な技術・道具の政治性が問題になってきます。ウィナーやフィーンバーグは価値中立的な技術観を鋭く批判します。例えば、ウィナーは『鯨と原子炉―技術の限界を求めて』の中で著名な建築家ロバート・モーリスの設計した道路、公園、橋を例にして、テクノロジーの政治性を指摘します。彼の作った陸橋は低く、公共バスが入ることができませんでした。また彼は公園に鉄道を延長する提案を拒否しました。その結果、橋の向こうにある公園は、自家用車を持たずバスを利用する低所得者・マイノリティにとっては使いづらく、白人層が主なユーザーとなったのです。モージスは人種的偏見と階級的偏向から、低所得者層やマイノリティを公園から締め出し、裕福な白人層と接しないように都市を設計したのだ、とウィナーは論じています。モージスの作った都市は不平等を構造化したものであるということです。
そもそも人間が文化的環境で生活する生き物である以上、テクノロジーによって他者が浸潤してくる事態は避けようがありません。しかし、逆に考えれば、環境と結ばれていない純粋な「デカルト的主体」という前提自体が、実は、テクノロジーの政治性を隠蔽してしまう装置として働いている気がするのです。人間は確かに、選択できない形で既に結ばれてしまっており、外部から切り離された純粋な「主体」という概念自体が危ういものなのですが、そのこと自体は、人間のごく当たり前な在り方として受け入れ、そこから先の「結ばれ方」について思いを巡らすという作業が、ますます高度なテクノロジーが人々を結び付けていくこれからの時代、必要になってくるのではないでしょうか。ナム・ジュン・パイクの作品は、テクノロジーによって他者を支配・制御するという側面よりは、「既に結ばれてしまっているという事実」を当のテクノロジーを用いて提示することによって、結ばれているもの同士が互いに認め合い、柔軟に変容し、融解していくさまを描いているように思います。彼の作品の優しさはそこから来ているように僕は感じるのです*1

*1:このですます調はなんなのでしょう。