フォーム・オブ・ライフ(日々の泡)

脳軟膜を剥いたり、小脳を切除したり(飽くまで画像上で)の単純作業に飽きたので 息抜きに言語学の講演を聴きに行った。

The Biological Perspective on Language
Günther Grewendorf (University of Frankfurt am Main)
Abstract:
I would like to discuss two concepts of language that have been proposed in modern theory of language. The first one goes back to the late philosophy of Ludwig Wittgenstein, who considers language to be a form of life. The second one is associated with the name of Noam Chomsky and takes language to be an organ in the biological sense of the word. It is shown that the concept of language as a form of life is unable to account for crucial properties of human language such as language acquisition, language variation, and its modular nature. The biological perspective on language, as modelled in the theory of Universal Grammar, not only provides a solution to the problem of language acquisition ('Plato's Problem'), it receives evidence from phenomena such as language disorder as well as from analogies with other cognitive systems. If language is part of our genetic endowment, as assumed by the biological account, it must have emerged as a result of biological evolution. Several approaches to the problem of language evolution are briefly discussed.

Grewendorf は言語哲学出身の言語学者。ということで、3 回の来日講演のうち、今回はウィトゲンシュタインチョムスキーの言語思想の比較。私的言語を批判し、言語を「生活様式 form of life」と見做すウィトゲンシュタインの言語観は、実際の言語諸現象を捉えきれていないとして、チョムスキーの生物学的視点を導入する。
Grewendorf が指摘するウィトゲンシュタインの問題点のひとつは言語を社会現象としてしか捉えていないということ。「私が規則に従うとき、私は選択しない。私は規則に盲目的に従う」(『哲学探究』 258) とウィトゲンシュタインは述べるが、なぜ我々は規則に「盲目的に」従うのか、の説明は与えられないままである。また社会的コミュニケーションの基本的能力を欠いてなお言語能力を保持する者の例がある。
また第一の問題に加え、母語の獲得に関する問題 (プラトンの問題) がある。ウィトゲンシュタインは言語の「習得」を「訓練」として捉えたが、しかし、言語は経験的データからのみでは構成されえない特質を持つ。
これらの問題は生得的な能力としての言語を仮定することでうまく説明がつく。
その後は定型的な生成文法理論の紹介。言語進化の話題などにも触れたが、がちがちのチョムスキアンらしく、新鮮さは全くなかった。
ともかく、現在の言語学理論は既に「明示的な言語規則」という考え方を放棄しており、言語現象をプロセスの一種として捉えている。我々は「言語知識」を有するが、しかし、それは我々にもアクセスできない潜在的なプロセスなのである。この点がウィトゲンシュタインが捉え損ない、サールが誤解したポイントである、と Grewendorf は主張する。
トーク後、「ウィトゲンシュタインは主にプラグマティクスについて触れ、チョムスキーは主に統語論について触れているように思える。この問題のレベルの違いによってウィトゲンシュタインを救済することは可能か?」という、まさに僕も聴きたかった質問が飛び出るが、Grewendorf の答えは No。ウィトゲンシュタインは言語の特定のドメインについて語っているのではなく、まさに言語そのものについての論を展開しているのであり、レベルの違いを持ち出すのはフェアではない、とのこと。明瞭な答えではあるが、少し頭を捻らざるを得ない。少なくとも哲学探究において、ウィトゲンシュタインはプラグマティクスに照準を絞っているように読めるし、プラグマティクスのレベルに生得的な言語器官という考え方を導入することにどれだけの利点があるのかをきちんと説明すべきではないだろうか?というよりこの辺りは僕も混乱しているところなので解説を願いたかった。
う〜む、長かった割に実りが少なかった気がしてならない。
 
脳画像の 3D 化は大分熟達してきた。