禅泳

今年に入ってまともな運動をしておらず、体がぎすぎすしていたので久しぶりに泳ぐ。一時間泳いだだけで、肩がパンパンになった。本当に鈍っていたんだなあ。それにしても下半身がほとんど疲れないのは泳ぎ方が不味いんだろうか。スイミング・スクールに通っていたのはもう十何年も前なのだから、いい加減フォルムが崩れているのだろう。バタフライは最早失敗が怖くて出来ない。
ところで、ひたすら泳ぐことによって無心になれることが好きで僕は泳ぐのだが、泳いでいる最中は無心であるからこそ当然、自らが無心であることに気付いていない。泳ぎ終わってから回想して初めて、無心であったことに気付くのだ。泳いでいる際の記憶がほとんどないためである。とすれば、無心になることによる報酬は一体何時の時点で僕に与えられるのだろうか。無心という状態そのものが、その状態にいる自己に快楽を与えているのだろうか。だとすればまさに泳いでいる際の僕は充足しきった白痴である。そうではなく、記憶の欠如をきっかけにして無心であったことに気付いた時点で快楽を得ているのだとすれば、これは窮めて歪んだ形の「無」からの搾取である。