すまねえ俺たち。

俺なりに頑張ってるのだ。といっても包括的な「俺なり」なんてのは当の俺しかわからなくって、周囲の人々は様々に分断された俺たちのうちのどれかひとつを見ているに過ぎない。研究室での俺、バイト先での俺、家での俺、バンドでの俺、友人の前の俺、恋人の前の俺、通勤電車の中での俺、排尿中の俺、夢の中の俺…、あ、それでもってこのブログでの俺。というわけで、もう、いくつも分断された俺たちが存在するのだが、その俺たちは各場面、場面で分断されているわけで、継続して汗水垂らしているのは俺だけである。俺以外の誰もそれを知らない。なんだか不公平な気もしなくもない。
兎に角、その全部の俺たちを統合して把握しているのは俺だけだ。全ての俺たちを俺が束ねている。おれ?これはなかなか凄いことである。もちろん個々の俺たちは目先の仕事だの誘惑だのにすぐ引き寄せられる視野の狭窄なやつらだから、俺のことなんて見えていない。その個々の愚昧な俺たちに対して責任を取ることが出来るのは俺だけであるし、取らなきゃならんのだな、ということに漸く気付きつつある俺である。これは当世流行の自己責任と一見似ているようで全く違う。俺たちのそれぞれが俗に言う自己責任を引き受けるべきか否かという問題も含めて、この俺が責任をとらなきゃならないのだ。メタ自己責任とでも言おうか。わわ、ややこしい。こら、そこの俺、理解しているか?こら、居眠りなんかしているんじゃないよ。また俺が責任とらなきゃならんのだから。
昨日は俺たちの中の一人の俺が他所の人から不幸な目に遭わされたのであるが、まあ、仕方がなかった。赤の他人に俺のような包括的な視点を求めることはどだい無理な話なのだ。彼には残念なことに包括的な「俺なり」の尽瘁が見えないのだからなあ。とはいえ、その俺たちの中の一人の俺は、一寸、可哀相なみたいだった。自棄酒なんて呷っていたようである。
まあ、どの俺たちも、俺からしたら、ひどく厄介ではあるが憎めない奴らである。ここは一丁全人たる俺がどーんと引き受けて、俺たちを引き連れて幸せにしてやらねばならない。俺が責任持って俺たちをプロヂュースしてやらねばならない。「俺なり」の奮闘ってやつをそれなりに世間様にアッピールしていかなければ俺たち、ひいては、俺が報われないのだ。決心したよ、俺は。俺たちよ、俺に任せろ。よせやい、俺以外に俺たちを幸せに出来る奴なんかいねえんだからさ。なんというか、まあ、今まで、ふがいない俺でほんとうにすまなかった、俺たち。
 


inspired by
エレファントカシマシ「すまねえ魂」(『町を見下ろす丘』)
グレッグ・イーガン「決断者」(『ひとりっ子』)
マーヴィン・ミンスキー心の社会