C・ダグラス・スミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

               経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)
BGMになり得ないローラ・ニーロ聴きながら車内で読書。
1949年のトルーマン大統領就任演説以来イデオロギーとなった経済発展主義に対する、オルタナティヴの提示。僕らの生活の中にすっかり構造化されてて見えなくなっている危険な事実に気づかせてくれる手法は鮮やかだけれど、経済発展のマイナス面ばかりをあげつらうのもどうか。医学の進歩により助かるようになった命とか、メディアの発展と寄り添うようにして勝ち取られてきた思想・表現の自由とか、経済発展によって支えられている大切なものは山ほどある(もちろん、それらが他者の犠牲なしに成り立つのならばそれがベストに決まっているけれど)。そういったものを「発展途上国」が手にする権利を筆者はどう考えているのだろうか?それは単に先進国の人間が「豊かさの質を変え」れば解決される問題ではない。これでは山形浩生から「ラッダイト主義!」と誹られるのは免れない。そのバランス取りこそが思想にせよ、政策にせよ、一番難しいところなんだろうけれど。
思うに、こういった「エコロジスト」な方々は本当の意味でのエコロジー(生態学)から目を背けているのではないか。生物の行為で環境と相互作用しないものは一切ない。言ってみれば一挙手一投足が「環境破壊」なのである。地球のために、だとか、生態系のために、などという唄い文句を真に受けてはならない。このような上辺の美辞麗句を排し、極めて当てにならない我々の価値観や倫理を自覚した上で、人類の適応度*1を高める戦略を探す、それしか術はあるまい(もちろんこの中に生態系を保護することも含まれ得る)。人間が生物であることを認識すれば、究極の「人間中心主義」は必然、「エコロジー」なものにならざるをえない。
ただ本書の「持続可能な発展」へのストレートな批判は気持ちが良い。何を持続sustainさせるのか。主語の要らない形容詞を用いることで巧みに隠されたイデオロギーLOHASを手慰みにしている人たち(危うく自分も仲間入りしかけ)は必読。
 

*1:リチャード・ドーキンスの立場では、「適応度」とは個体、もしくはゲノムに用いられる述語なので、「人類」という種全体に対して用いるのは誤り。長谷川寿一・真理子せんせの『進化と人間行動』がわかりやすい。