本日の環境学

 
カンバセイション・ピース
 
 
 
保坂和志カンバセイション・ピース
 
 
 
 

人が空間の中に生きているかぎり、空間と何らかの折り合いのつけ方をしているわけで、「私」という特定の主語がここからの眺めを見ているのではなくて、私でなくても誰でもいい誰かがここからの眺めを見るという、そういう動作の主語の位置に暫定的にいるのが今は私なのだという風に感じられることが、空間との折り合いのつけ方のひとつかもしれなくて、それなら自分の中に蓄積された時間や行為という考えは少し単純すぎると思った。

 
 
保坂和志の綴る文章はまさに「思考の流れ」にそのまま形を与えたような形式で、長い一文の中に何度も主語述語が入れ替わり立ち替わるとりとめもなさで充たされているのだけれど、排他的な内面性というのを全く感じさせない。語り手である「私」の中へと、心地よいまでに読者を溶け込ませ、古く懐かしい世田谷の木造家屋の中に住まわせる。その「私」自身、ちょっとした瞬間に伯父や幼い頃の自分へと変幻して止まない。丹念に「思考の流れ」を描写することにより、逆に語り手の透明性を高めているのだ。生きて猫と戯れ他者と交流し季節を感じ「家」というニッチに生かされる「私」。そこには自律性、主体性の幻想に満ちた息苦しく声高な主張はない。「私」を形成するものは環境との関わり合いの来暦である。「会話のかけら」の中にごく自然な形で「自分」が生まれていく。
近代の私小説は、西欧文明の必然的要請である自律性・主体性と、旧来の伝統的な環境に根付いた人間の在り方との軋轢を巡って展開された。私秘性は近代化する社会が人間に余儀なくさせた心のあり方の一形式だ。戦後10年を経て産まれた保坂には、もう、その軋轢をテーマとするほどの動機はないのかもしれない。
しかし先ほど「自律性・主体性という幻想」と言う表現を用いたのだけれど、人間が再帰的な存在である限り、幻想の実体化は必ずや生じる。いや、まさにこの時代、戦前以上の全世界的規模で、主体性の実体化への要請は高まっている(それどころか、環境の巧みなコントロールによる、規範の内面化すら必要としない人間管理が行われているというのがドゥルーズらの分析だ)。そして、そういった流れに拮抗するだけの土壌は近代化の中で既に剥ぎ取られていってしまっている。僕らはもう伝統的共同体に戻ることもできないし、それを良しともしない。
保坂和志が描く心地の良い生態学的自己は、日本の豊かさと平和とが飽和に達したある瞬間の幸せな(やはり)幻なのかもしれない。現にこの小説に登場し、物語を導いていく大きな木造家屋のような場は既に稀少な存在だ。これから先、僕らは保坂さんの世代とは別の形で「世界を肯定する哲学」を育んでいく必要があるんだと思う。
 
a girl like you 君になりたい。
 
 
 
 
 
 
付記:カバー写真を撮影した佐内正史氏はどうということのない日本の町並み(世田谷とか井の頭線小田急線沿線が多いんだろうか)を撮るのが実にうまいと思う。彼独特の緑色の表現と混じるとアスファルト、コンクリートの無機的な灰色も優しく届く。『a girl like you 君になりたい。』も素晴らしかったけれど(単に女の子たちが可愛いだけなのかもしれない)、つまらない住宅街をひたすら撮した写真集も見てみたい。