概念構造は語彙に記載されているか(2)

(1)の続きです。
 
The Generative Lexicon (Language, Speech, and Communication)
 
 
 
 
 
 
 

2.Fodor & Lepore (1998) における生成語彙論批判

The Emptiness of the Lexicon: Reflections on James Pustejovsky's The Generative Lexicon

Fodor J. A. & Lepore E.
Linguistic Inquiry(1998), 29(2),269-288

彼らの主張は一貫してシンプルである。それは「語彙意味とは外延 (denotation) であり、それ以上の複雑な内部構造を含まない」という「原子論的」主張である。つまり ”dog” という名詞には ANIMAL という包摂関係を示す要素は必要なく、ただ単に dog そのものを指し示すもので、それ以上ではない、ということである。動詞に関しても同様で、”butter”という他動詞は buttering を示し、COVER [ ] WITH BUTTER のような内部構造を持たないということだ。このように、分析的な内部構造を語彙意味に含む言語理論は全て退けられる。彼ら自身は語彙登録 (lexical entry) が内部構造を持つこと自体は認めるのだが、意味の領域に関しては一貫して原子論的な姿勢を崩さない。以降、重要な主張を要約して挙げるが、ここで注意したいのはFLらの議論は、「語彙意味は原子的で、内部構造を持たない」という説を帰無仮説とし、 Pustejovsky がそれを棄却できるか、という論法で進められる。つまりFLの議論が正当なものであるとしても、それは直ちに Pustejovsky らの主張が誤りであることを意味しない。語彙意味に複雑な内部構造を規定するだけの十分な理由がないことを示すに過ぎないのである。

2.1 語彙間の関連
Pustejovsky は単語間の意味的な繋がり(同義語、反義語、包摂関係など) を適切に記述するためには、語彙意味は外延のみの原子論的なものでは十分ではないと主張する。つまり ”dog” という語は ANIMAL の概念を含むものでなければならない、ということである。
これに対し、FL はdog ⇒ animal という関係が必ず成り立つ(animal は dog の必要条件) としても、“dog” という語の意味の習得に “animal” が必要不可欠であるとはいえない、と反論する。なぜなら two ⇒ prime(素数) という関係は必ず成り立つものであるが、”two” という語の意味を習得するのに prime の概念は必要ないからである。このように外延以外のものを語彙意味に含めることは言語知識と世界知識との区別を混乱させるもととなる、と FL らは述べる。

2.2 意味的な正しさ
Pustejovsky は ”Mary began the rock.” という文が「意味的に正しくない」のは ”rock” の意味素性が ”begin” という動詞が要求するものとそぐわないからであると考える。つまり「意味的な正しさ」 semanticality は語彙意味が分析的な内容を仮定することによって、正しく記述できると考えるのである。
これに対し FL は、この文が奇妙に感じるのは、単に「メアリーが岩に対し、(もしくは岩を使って) 何を始めようとしたのか」がこの文からでは想像できないからである、と主張する。仮に「岩に色を塗る」ことを示すような文脈を与えてやれば、この文の奇妙さは消滅する。この事実は文法性と同様な「意味的な正しさ」は存在せず、従って、Pustejovskyの議論は語彙意味の内部構造を支えることは出来ないということだ。

2.3 統語における分布
Pustejovsky は語彙の意味と統語上の分布には相関があり、その記述のためには語彙意味に概念構造を仮定する必要があるとする。例えば、”eat” が直接目的語をすることが出来るのに対し、”devour” は不可能である。これは ”eat” が無限に可能な行為を表すの対し、 “devour” は有限な事象を表すからである、というのがPustejovskyの説明である。
ここで導入された有限性 “unboundedness” という概念をFLは批判する。第一に ”smell” のように、非有限な行為であっても目的語を必要とする語があり、全ての例を完全に説明できないということだ。FLは “devour” が有限性を持ち、”eat” が非有限的であるという解釈は、統語的知識から逆に持ち込まれたものであるに過ぎない、と述べる。
 またFLは意味的な要素が統語に影響を与えているとして、それが直ちに語彙に外延以上のものが記載されていることの証明にはならない、と批判する。これらの現象は有限性に関する情報が ”devour” という語彙に記載されずとも、“devour” が指示する外延 devouring に関して話者/聴者がその知識を持っていれば十分に説明可能である、ということだ。

これらの論点をまとめた上で、更に FL は Pustejovsky が提唱する語彙意味の生成性に関する議論を続けるが、本論には直接関与しないので省略する。
 
(3)に続く