藤井直敬『予想脳 Predicting Brains』

 
岩波科学ライブラリー 予想脳 Predicting Brains (岩波科学ライブラリー (111))
 
 
 
 
 
 
 
 
読書中(p.1-41)。簡潔な記述ですらすら読める。帰宅の電車内で読み終わりそう。とはいえ、かなり面白いことを言っている。詳細な実験結果から積み立てていくボトム・アップの議論ではなく、トップダウンの仮説概念を元に書かれたものなので、ところどころ飛躍もあるけれど、新たなパラダイムを打ち立てるには散らばった乱雑なイメージを大胆に結び付けていくこのような作業も必要となってくるに違いない。ただ、やはり、言及されている実験の引用文献一覧は欲しかった。
インターネットと脳の情報処理の対比で面白い記述。

脳でやりとりされる情報にはプロトコルがない
しかし、脳がインターネットの情報の流れと異なるのは、情報の流れのコントロールが一見無秩序で、信号だけを取り上げると、ある部位の情報がどこから来てどこへ向かう情報なのかを知ることがきわめて難しいことである。つまり、情報は大量にやりとりされているのに、情報そのものには情報以外のタグがついておらず、それゆえその発信源も行き先もわからないのである。
(中略)
送信側の神経細胞は自分の受け取った信号を、どこから来た信号かわからないまま、軸策を通じて神経末端まで伝達し、軸策の末端で多数のシナプスを作り、勝手なタイミングで受け手側のレセプターに化学的に信号を伝えている。単純化するならば、そのような行き先も発信源もわからない情報を、シナプスを通じて勝手なタイミングで神経細胞同士がやりとりしているのが脳である。(p.15)
 
コンピューターの通信がどのような経路を通じても情報伝達を保証しようとデザインされているのに対して、脳では伝達経路が生後の発達の過程でかなりのレベルまで固定化され、処理経路の自由度が極端に低く、それにより細胞一つひとつの匿名性が増し、ほどんどの処理が自動化、最適化されていることであろう。つまり情報の流れが解剖学的な制限を受けることで、望ましい処理を意識して選択することなく常に正しくほぼ自動的に行えるとくことである。それならば行き先の情報も送り先の情報も必要ない。(p.19)

このように脳内での情報のやりとりはかなり危うい方策を採用している。もし情報が脳内で分散して処理されるなら、それを再び統合しなおさなければならない(バインディング問題)。さもなければ僕たちの世界認識は色や形や音や匂いがそれぞればらばらに散乱したままになってしまう。統合は時間・空間の両方において必要になってくる。情報の経路に関しては引用のように、解剖学的な制約によって自動化が行われている。全ての情報を統合する部位が恐らく存在しないとしても、脳の部位ごとに処理される情報が固定さてているのだから、空間の統合は原理的には何らかの方法で実現可能だろう。しかし時間に関してはどうだろう。藤井氏もそこに関しては解らないと述べる。
 
脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか
 
 
 
 
 
 
 

茂木健一郎氏は脳内の情報の同時性を担保する原理として相互作用同時性という概念を提唱している。

認識のニューロン原理の下で、私たちの心の中の時間の性質を決める一つの考え方が、相互作用同時性である。ここに、相互作用同時性とは、あるニューロンの発火と別のニューロンの発火が相互作用(活動電位の伝幡と、シナプスにおける神経伝達物質の放出)によって結ばれる時、それらの発火は、「同時」であると見なされなければならないという原理である。もちろん、あるニューロンの発火が別のニューロンに伝わるためには、有限の時間(例えば10ミリ秒)がかかる。だが、ニューロンの発火の状態のみから認識の性質を導き出すという立場からは、これらのニューロンの発火は「同時」に起こっていると見なさなければならないのである。このような時間は、物理的時間tとは異なるので、固有時と呼び、τで表すことにする。上の例では、「シナプス前側のニューロンにおけるt=シナプス後側のニューロンにおけるt+10ミリ秒=固有時τ」となる。
 脳とクオリア (要約) より

これはミクロな視点で見ればもっともなようであるが、脳全体のネットワークを見渡した際に果たして妥当でありうるか。発火のチェインが1秒程度で途切れる保証はないだろう。その時、主観的には全て「同時」として見做されてしまうのだろうか?それではどこまでも「同時」が続いていかないだろうか?もちろん物体の形や色は同時に認知されるけれども、 Cm7b5 のような複雑な和音を聞いた時、それを一音ずつに分解していく複雑な認知処理を行う際には、僕は時間の流れを感じている。情報のインプットは一回だけの和音であるが、それに対する処理は明らかに主観的な時間の経過を伴って知覚されるのだ*1。これはどう説明できるだろうか?
またニューロンは一対一対応ではない。起源の異なる複数の入力が一つのニューロンになされた場合、どちらの入力に対し、同時性が生じるのか?茂木先生が講義にいらっしゃったとき質問したのだけれど、明瞭なお答えはいただけなかった。主観的な時間の知覚に関してはまだまだ多くの経験的研究が必要なのだろう。
それから藤井氏は脳における情報の流れをインターネットと比較しているが、このアナロジーはあまり聞いたことがなかった。通常、脳はコンピューター内部の情報処理と結び付けられて語られる(ニューラル・ネットとはあくまで一台のコンピューター内のネットワークである)。歴史上、人間は常に最先端の科学技術に脳を例えて来た。これからの時代、一台のコンピューターを越えて、コンピューター・ネットワークとしての比喩が主流になっていくのだろうか。そして Web2.0 の御時勢に相応しく、藤井氏も脳の機能の社会的な側面を強調する。ただコンピューター・ネットワークとして脳を語ると、一つのニューロンが一つのコンピューターに相当することになってしまい、そりゃいくらなんでもやりすぎだな。
 
しかしジャッケンドフを訳しつつ、その志向性を排除した方向性に大いに共感しながらも、ついついその類の説明概念に頼ってしまう。

明らかに無害と思われる「情報」 information という言葉すらこの問題を免れない。情報を伝達 inform する対象なくしては、情報は情報たりえないのだから。
   Ray Jackendoff "Foundations of Language" (ことのはのいしずゑより)

人間は非生命体すらエージェントとして認知する(「ライフゲーム」The Game of Life (参照)という命名に顕著だ)。そういった「擬生命化」の傾向こそが僕たちが高度な(複雑な)社会を築きあげる原動力になったという議論がダニエル・デネット自由は進化する』におけるポイントだった(うろおぼえだけど)。この進化的に培われた傾向からは、なかなか脱することが難しい。もし僕らが本当に何の苦労もなく、志向性を排除した語彙によって脳内の全ての現象を語れるようになったとき、そこに何らかの変革が生じるのではないだろうか。

付記:藤井氏のお名前を間違っていたので訂正しました。失礼いたしました。

*1:このような複雑な和音さえも一度「クオリア」へのラベル付けを確立してしまえば、自動的に分解できるようになるのがすごいのだけれど。