餓記

昨日に続き朝食以外口にせず。案外食事をしなくても活動できるものだ。1日3度の食事を続けているとその習慣が強迫観念へと代わり、栄養を摂取する必要もないのに腹が減ったりするのではないか。などとなかば非科学的なことを考えてみる。いや、気の持ちようというのは本当で、全く腹が減っていないつもりでいたのに、ふと食べ物の話を聞いたり写真を見たり匂いをかいだりすると急に腹が減るということはよくある。空腹とは単純な血糖値の問題ではないのだ。
そういえば私は幼い頃、空腹を知らなかった。胃袋が常に食べ物で満ちていたなどというのではなく、腹が減るという感覚が理解できなかったのだ。公園で遊んでいても回りの友達は、ああ腹減った、などと一人前に訴えるのだけれど、私にはそれがどんな気分なのかちっとも解からなかった。しかしその事実を口にすることは、自分がクオリアを持たない哲学的ゾンビであることを表明する致命的告白となるだろうことをうっすらと悟っていたので、私も、オレも腹減ったあ、などと白々しく口にして家路に着くのだった。
いつの日からかは解からないが、私も当然のように空腹を覚えるようになった。図々しい人間になったものだ。今になって省察してみれば、幼い頃の私も確かに血糖値は下がり、物理的な意味では腹は減っていたのだけれど、その感覚を食物へと向かう欲動と結びつけることができなかったのだろう。何の出力とも結びつかない感覚は名前付けができない。行動として出力されない以上、その感覚が人々に認められることはありえないし、認められない以上語彙として存在するはずがない。しかし何とも結びつかないような感覚は確かに存在する。今、パソコンに向かってキーボードを叩いているこの瞬間も、名付け得ない感覚が私の中で通奏低音のように流れている。私はそれについては沈黙を守ろう。そのような何の出力とも結びつかない感覚を奇跡的にも伝えることができるのは文学だけである。結局、「伝わる」というのは、「在る」ことが実感できる、と同じことであるように思う。毎日の生活の中で、伝えられることなく、存在を知られないまま殺されていくものがどんなに多いだろう。
今朝、起きたら24時間飯を食っていないのだから当然腹が減っていて、しかも今日も絶食するつもりだったから、朝だけはしっかり食べておかなければならない、と妙な気迫で飯をかきこんだ。どうやら腹が準備できていなかったのだろう、学校に着く頃には腹を下していた。そういえば以前入院し、しばらく喉に刺したチューブと点滴から養分を摂取していた後も、「いきなり食べるとお腹が驚くからね」などと看護婦から諭され、柔らかいものから徐々に一般の食に戻したのだった。
それにしても入院してベッドに寝たきりの時ほど食事の時間が待ち遠しいときはない。小確幸どころか妙に大きく確かな幸せなのだ。そして退院するとすぐにあの食事の有り難味を忘れ、食事をおざなりな態度で取り扱う。大体心待ちにもしていないのに、食事の時間が来たからといって慣わしのようにものを口に運ぶのは礼を失しているのではないか。誰に対して、と自らに問うてすぐに思い浮かばないのが、また疚しさを増大させるのだけれど、漠然とした失礼というのは確かに存在する。
ホテル・ルワンダ」では、ホアキン・フェニックス演じるイギリス人ジャーナリストが口にする「映像を見て、『恐ろしいね』と言って、またディナーに戻るだけさ」という印象的な台詞がある。私はルワンダに関して無知なままディナーを10年間へらへらと続けた。そして2006年春、コーヒーで温まりながらルワンダの惨状をスクリーン越しに眺める。長年お気楽にディナーを続けてきた私は自問しなければならない。お前が10年間口にしてきたディナーは、いったい誰の血と肉であったか、と。私はハンニバルとして生きている。